《終章:ハワイ》
 
 
 
 
 
 
 

「おれはそのあとハワイに行ったんだよ」
そんな風に軽く言うウハチさんにまた驚かされてしまいました。期待通りの反応だったのか、ニヤッと笑っています。ルソン島での戦後処理がほぼ片付いた時点でアメリカ軍の主力部隊はハワイに戻ることになり、アメリカ軍属になったウハチさんもいっしょに移動したのでした。

残されているアルバムをめくると、ハワイでの生活がそれまでとは全く違うことが分かります。フラダンスの腰蓑を巻き付け胸にはブラジャーの白人の青年が、カメラに向かっておどけたポーズをしている写真。シープの運転席でハンドルに手をかけている人は確かにウハチさんです。サングラスをかけていますが、後ろのシートに坐っている黒人の兵隊と体格が明らかに違いますから。車の横に立っている白人兵も上半身裸です。ちょうど正午の南国の太陽が彼の足元に小さくくっきりした影を落としています。

「ローエン神父は親切な人でね、家にもよく遊びに行ったんだよ。奥さんが夕飯をごちそうしてくれたり、小さな女の子がいておれによく懐いてくれた」
アルバムにも大きな目をしたブロンドの女の子が犬と芝生で遊んでいる写真がありました。ウハチさんにも同じ年頃の女の子がいたので尚のこと可愛く思えたのでしょう。
「ローエンさんにはずいぶん世話になったんだよ」
ウハチさんの心細い境遇を理解してくれた人だったようです。それから20年後、神父に再会するためにアメリカの西海岸の住まいを訪ねています。その時はお互いの成長した娘の写真を交換し合ったそうです。

ある日上官の部屋に呼ばれ目の前に書類が出されました。
「これにサインをしろと言われたんだけど、何か変だなと思ったから『ちょっと待ってくれ』と言って必死に読んだ」話すだけなら何とか分るようになっていた英語ですが、自分の運命を決める英文の解読にはとても緊張したそうです。

「どうもこれにサインすると正式に米軍に入隊することになってアメリカ本国に送られるはめになりそうだと分ったんだ。そうなったら簡単には日本には戻れなくなるからね」
その時ウハチさんは初めて自分の本当の気持ちをアメリカ軍に伝えました。
「もう日本に帰してください。私は日本に帰りたいのです」
この瞬間のための用意と覚悟はもう心の中にしてありました。それを支えたのはおそらくローエン神父だったのだと思います。

ウハチさんが亡くなった年は雪が多く、亡くなるちょうど一週間前には膝まで埋まる大雪が降りました。最後に会ったのは亡くなる五日前です。仕事から帰ると家の電話が鳴りました。
「天ぷらを買って来たから取りに来て」
表の路地に出てぐるっとブロック塀を回り込むとお隣の門があります。広い庭にはまだどっさりと雪が残っていました。玄関のドアを開けると奥の台所の方からスリッパの音が聞こえました。
「寒いから中に入って待ってて」やがて現れたウハチさんは、
「夕飯の支度が大変だろうと思って余計に買って来たんだよ」と優しく笑っていました。中には、イカとアジの天ぷらが透明ラップ越しに見えていました。

ウハチさんの死因は肺炎です。ずっと通院治療を受けていた膵臓の病気ではありませんでした。検査で毎回数字が変動する度に一喜一憂し医師の一言で暗い顔になったりする人を見ていると、あんなに過酷な状況を生き抜いて来た人なのにと思えて情けなくも哀れにも思えました。

でも今はそうは思っていません。少しでも長く生きていたいという意欲とそのための努力、孤独の中で精神が病まないように工夫しながら生きていたウハチさんの最後の戦いは、地道で目立たぬ毎日の行為の積み重ねだったのです。

田舎のしきたりで通夜もお葬式も隣組が手伝うのですが、ちょうどその二日間とも私は仕事で出かけなければならず欠席しました。通夜の式にも間に合わず、ウハチさんの顔だけ拝ませてもらいました。

その時の自分のことはあまりよく覚えていないのですが、朝から手伝いに出ていた夫が言うには、棺のフタを開けてもらって中を覗き込んだ私は、
「ウハチさんが死んでる。死んだウハチさんがいる」と言いながら声を出して泣いたそうです。そこにはもうこの世の人ではない固まった顔、ウハチさんの形のなごりがあっただけだったのです。

ドサッと屋根から滑り落ちる音に思わずお隣の家を見てしまいます。もう誰も住んでいないはずなのに、二階に上る途中の階段の小窓や西向きの部屋の格子窓から時折こちらを眺めている視線があるような気がしてなりませんでした。まだ家の中にウハチさんの魂が住んでいるように思えました。

亡くなってちょうど四十九日目の夜にウハチさんの夢を見ました。
ウハチさんはいつもの出で立ちではなく、半ズボンで脚には脚絆を巻いていました。背負った背嚢には毛布が結わえ付けられこれからどこか遠くに出発するところでした。薄いピンクのベレー帽をゆったりと頭に冠っているのが目を惹きました。どこか外国の軍隊のようでした。また戦い続けるのだろうかと思いながら挨拶を受けたのでした。

目覚めた私は縁側に出てお隣の家を見上げずにはおれませんでした。すると不思議なことに昨日まで感じた視線はどの窓からもなく、もう誰も住んでいない空き家に見えたのです。

                      ----------(完)-----------


 

49)四十九日(エピローグ)

ルソン島で死んで行った仲間のことをずっと想い続けてきたウハチさんには、靖国神社が軽んじられているような世間の風潮が不満でならなかったようです。はっきりと首相も、天皇さえも詣でるべきだと言います。それを黙って聞いていました。死線を超えて来た人と議論をするほどの覚悟は私にはありません。

縁側から見えるウハチさんの家の白壁に西日が当たって眩しく光っています。山にすっかり日が沈んでからは壁がだんだん青白く見えてきました。
「あんたたちが隣に来てからずいぶん風通しが良くなったよ」と言われたことがあります。それは私たちに対する好意を言葉にしただけではなく、自分の孤立感や状況の苦しさをも伝えているようでした。あんなに過酷な戦場から生還した人ならもう何も恐いものは無いように思えるのに、この谷間の小さなコミュニティーにうまくとけ込めなくて、ずいぶんと気苦労があったようなのです。

特に深い信仰があるように見えなかったウハチさんが宗教について反発心をむき出しにして話したことがあります。
「自分の祈り方を他人に押し付けるのはおかしいよ。仏壇に拝むときにはその家のやり方に従えば良いんだ。それを一々咎めたりして、変なことを言うヤツがいるもんだ。あんなのは自分が何を拝んでいるのか分っちゃいないんだ。一升瓶に取っ替えたって分りゃしないよ。同じように拝むんだぜ」と、吐き捨てるように言うのでした。どこかでそういう人を目の当たりにして不愉快を感じたのでしょう。

日本に帰ってからも近くの教会に出かけることがあったようです。この家の本棚に聖書と聖歌集が残されていました。ページの間から小さな紙切れが数枚出てきました。教会でお互いにメモを交換して意見を伝えあったようです。
中に一枚ウハチさんの筆跡のがあって、
「私にはどうしても教会に入れない事情があるのです」と書かれていました。

そのことだったら私にも察しがつきます。おそらくこの家が建っている土地にまつわる事情でしょう。東電の変電所と社宅があった土地をそのまま引き継いだウハチさんは、地主であるお寺との繋がりを大事にしていました。庭に小さなロウソク工場を建てて老後の蓄えを作ろうと奥さんと働いた土地でもあるのです。その奥さんに先立たれてからは、お寺の霊園にお墓を立て菩提寺になったお寺なのでした。

世間的にはすっかり引退したはずのウハチさんは、他所の家にお茶ひとつ呼ばれるにも気をつかっていました。あらぬ噂が立たないように用心して、夕暮れの風が肌寒くなっても縁側より奥には決して入らないのでした。そういう人でしたから、ハワイにいた時には教会に出かけ、この山間の村で暮らすようになってからはお寺の行事に招かれれば必ず出席していました。

48)信仰
47)原子力発電
46)東電
45)ピストル

GHQの本部は皇居のお堀を見下ろすビルにあったそうです。休みの日には近くの銀座をぶらぶらすることもあったウハチさんでした。
「道端で石鹸を売っていたのでどんなものか試しに一つ買ってみたんだよ。そしたらまあとても使えた物じゃなかったね。すぐに水に溶けちゃうし泡立ちも悪い」
いつも使っているアメリカの石鹸とは比べ物にならないほど粗悪だったそうです。
「そんなに安くもないんだよ。それでもけっこう売れている。あんなもので商売が出来るんだったらもっと良いものを作れば絶対儲かると思ったね」

その時ウハチさんの頭に閃いたことがあったのでした。その頃親戚の人に就職の相談を受けていたのです。
「電力会社に世話してくれないかと頼まれたんだけど、そういうことはやりたくなかったし、無理だろうと言って断っていたんだよ。でもこれなら仕事になるんじゃないかってね」
早速次の休みの日に上野にある国立図書館に出かけました。石鹸の作り方や材料を調べるためです。
「カセイソーダがあれば上質の石鹸が出来ることが分ったんだ。どこかで手に入らないだろうかと仲間に聞いたら、水戸の軍倉庫に行けばたくさんあると教えてくれたんだ」
国内にある重要な物資はすべてGHQの管理下に置かれていたのでした。

休暇を取ってトラックの手配もして、これから汽車に乗ってカセイソーダを受け取りに出かけようとしていた時でした。
「一人で行くのか?ピストルを持って行け」
そう上官に言われてハッとしたそうです。『日本人』に自分がどう見えるか、全く想像できていなかったのでした。

汽車の中は買い出しから帰る人たちでごった返していました。
「皆ジロジロおれの方を見るんだ。向こうに着くまでずっと車両の通路の端に立っていたよ」
そしておそらくウハチさんの手はポケットの中で拳銃を握っていたはずです。

形にもこだわって作った石鹸は評判も良く、面白いように売れたのだそうです。いよいよ東京の下町に小さな工場を作ることになった時点で実際の経営は親戚に任せ、発案者で出資者のウハチさんはときどき経理を手伝うだけにしました。その後会社はロウソクも作るようにもなり、戦後景気の波に乗って順調に業績を伸ばして行ったようです。

44)GHQ
43)ハワイ

「日本に帰って来たことをもう家族は知っていたんですか?」
「おれが行くまでは何にも知らなかったみたいだね」
もう何年も留守にしていた家族との再会に、ウハチさんは運転手付きのジープで乗り付けたのです。アメリカの軍服を着て帰って来たウハチさんの腕には、『GHQ』と書かれた腕章もはめられていたはずです。

「所沢の社宅にまだ住んでいるというのは分かっていたんだ。だから砂糖をたくさんジープに積んで出かけたんだよ。隣近所にも配れるようにね」
家からは奥さんと、その時はもう小学生になっていた女の子が出てきました。奥さんは何も話しません。その母親に代わってその子が言ったそうです。
「お父さん今まで何してたの?お母さんはひとりで大変だったのよ」

父親がいないのにまだ社宅に住まわせてもらっている肩身の狭さや家計の苦しさなどを見て来た娘さんは、父親の突然の帰還を喜ぶことはなく、ただ責めたのでした。我が子にそう言われたのがウハチさんには相当のショックだったようです。再会のシーンとしてそれだけを話してくれました。

帰国してから毎日どんな仕事をしていたのか聞いてみると、
「いや大した仕事というのはないんだよ。ジープを走らせてあちこち調査や連絡に行っていたんだ」
かつて勤務していた東京配電株式会社に出向くこともありました。
「会社の上司が皆して驚いていたよ。おれは司令部から直に行ったんだからね。書類を検閲したり指導したり、不備があればどんどん注文をつけてすぐに直させた」
「へえ、すごいですね。本部付きで働いていたんですか」マッカサーが飛行機のタラップを降りてくるあの有名な写真を思い浮かべながら聞いていました。

それまでの緊迫したルソン島や、不安定な立場だったハワイでの話とは違って、生き生きとして自慢げな様子もあるのです。故郷に錦を飾るというには普通ではない異常な立場ではありますが、やっと日本に帰って来た喜びと、戦後の復興に自分も携わったという誇りがあるようなのでした。

1952年にGHQの日本駐留が終わると再び東電の社員になりました。
「すっかり会社のトップと顔見知りになったからね、東電に戻ってからもいろいろと有利なこともあったんだよ」と、社内での処遇が良かったことを話してくれました。しかし同僚たちからはかなり嫉妬されたようです。

「おれが行くとシーンとなるんだ。空気が冷たくなるのが分るくらいだったよ」それでも平然としていられたのは、子供の頃から村のガキ大将で跳ねっ返りの嫌われ者で鍛えられていたからです。ルソン島での激しい戦闘と飢餓、アメリカ軍属になってまで生き抜いた気概と孤独が、ウハチさんの彫りの深い顔をさらに厳しく見せていました。

面白い発明もしています。
当時はしょっちゅう停電が起きていました。過度な電流が流れると線がショートしてしまったからです。電圧を一定に保つための変電所も人がいつもメーターを見張っていたのです。
そこでウハチさんは、停電が起こらないようにするための電柱に取り付ける自動スイッチを考えたのです。
子供のおもちゃのペリカン人形はシーソーになっていて、お尻のところのガラス管の中の水が揮発して軽くなると頭部の方へ傾くように出来ています。カタンと傾いて嘴をコップの水に突っ込む姿がユーモラスに見えます。この原理を電圧の可変装置に応用できないかという発想でした。
ガラス管に水銀を封入してシーソーのようにバランスを保たせました。片方をアルコールランプであぶると、カタッと傾きます。実験を繰り返しデータを揃えて東電に提出、それがさらに精度をあげ実用化されました。
「すごいなあ、それ特許とったんですか?」
「いや会社員だからそうはいかないよ。でも感謝状とボーナスは貰った」
その実験に使ったと思われる水銀の入った瓶がこの家に残されていました。紙に包まれてずっしり重い液体です。

ダムや発電所や変電所の建設を手がけたウハチさんの仕事場はだんだん山間の方へと動いて行きました。
「この辺りだってほんの一昔前までは電気が来てなかったんだよ。西武鉄道もこの吾野駅が終点だったんだからね。まず電気を通してからやっと秩父まで電車が開通したのさ」
ルソン島のジャングルの中を武器や弾薬や食料を背中に背負って動き回った人が、その後も電気を通す仕事で山の中を動き回る仕事をしたのです。

目の前に広がる山並みを眺めるウハチさんの顔は、もう話の核心は語り終えて穏やかでした。日よけの帆布を引っ張っているヒモにトンボがとまっています。日差しが斜めになって来ると、秋が急速にやってくるのが山里なのです。


 

日本初の原子力発電所が建設された時期と、ウハチさんが東電を定年退職した時期は重なります。
「ちょうど原子力発電所の査察の仕事の話が来てね、ちょっと迷ったけど、給料も良かったからやることにしたんだよ」コンクリートの厚さを計ったり建物の材質や強度を調べたり、安全基準を満たしているかどうかを調べるのが仕事でした。
「でももし放射能漏れがあったりしたら、怖いでしょう?」
「いやぜんぜん危険じゃないよ。稼働する前だから原子炉の中だってまだ空っぽなんだ。毎日旅行しているような気楽な仕事さ」
現地に到着すると接待係が運転手付きの車を用意して待ち構えていたそうです。査察もそこそこに、
「さあどうぞどうぞ、ってすぐに旅館や料亭に連れて行かれて昼間っから宴会なんだ。土産なんかも持てないくらい渡されるから、先に家に送ってもらっていたよ」

第三者機関として独立しているはずの査察チームに電力会社の元社員が就くのは変だなあとは思いましたが、ウハチさんはそれは承知で引き受けたのでしょうか。ニュースでは原発反対集会や原潜の入港を阻止しようとデモをしている人達を見ていたので、どうにもスッキリしない気持ちで聞いていました。

「皆が心配しているようなものじゃないよ。しっかり作ってあるんだから、あんたたちも機会があったら見たら良いよ」しかしそう言われても、素直に「はい」とは頷けませんでした。
「おれもそろそろ80だ。あんたたちには遥か遠くさ」

ときどき横田基地に出かけると言っていたウハチさんは、戦後もずっと米軍から年金をもらっていたようです。その日は午後もだいぶ遅い時間にやって来て開口一番、
「今日は最後の軍人年金をもらってきたよ」少しホッとした顔をしているようにも見えました。

基地のゲートを入って行く老人のウハチさんを想像してみるのです。年金係の女性と世間話をする。特別変わった報告もないのでこの日は奥の部屋にも立ち寄らず、ノートにはただ日時が書き込まれる。アメリカ軍はOBであるウハチさんから情報を細かく収集し続けていたということもあったのでしょうか?

となりの戦車隊長/バレテ峠と同じ夏

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