《第4章:サリナス》
22)十国犬(ジッコクケン)

「おれは子どもの頃から犬とは馴染みがあるんだよ。うちでは犬をたくさん飼ってたからね、『ジッコクケン』っていうんだ」
「どんな犬なんですか?」
「ちょうどこの犬くらいの大きさだけど、首の後ろからずっと尻尾の先まで毛が黒い縞になってるんだよ。そんなに大きかないけど気が強い犬でね、おれなんか怖くて近づけなかった。子どもだからってバカにして唸るんだ。親父の言うことだけは良く聞いてたなあ」
鬼石(おにし)の旧家だった屋敷の庭には、多い時には20匹近くの十石犬が放し飼いにされていたそうです。

十石峠の群馬側の山里で狩猟犬として飼われていた犬が、その地方だけの純粋種になっていったものらしいのです。
「今もウハチさんの実家ではその『ジッコクケン』を飼っているんですか?」
「もう数匹になっちゃってたし、実家の兄貴も一人暮らしで世話ができないからって、最近県の方に譲ったらしいよ。今は群馬県の繁殖施設で飼われてるはずだ」

ウハチさんが言うには、犬にはそれぞれの種類で気質が違っていて、犬の顔を見ればそれがどんな犬かすぐに分かると言うのでした。
「この犬も野良犬だったにしては良い犬だと思うよ。かわいそうになあ、子犬が腹に入ってるから捨てられたんだろう。これだけ気が強いから生きて来れたんだと思うよ、頭も良いし」と、ずいぶんな褒め方をします。

飼い始めてから分かったのですが、うちに迷い込んだその犬は、この辺りの部落を何ヶ月もウロウロしていたらしいのです。散歩をさせていると「この犬知ってる」とか「うちでもご飯をやったことがある」とか、あちこちで声がかかりました。「良かったわね、いい人に飼ってもらって」と言われたこともありますが、中には「もう捨てないでね」と、妙なことまで言う人も出てきました。

しかしだんだんお腹が膨らんできた時には、さすがに焦ってしまいました。
それでも産まれた4匹の子犬は可愛く、毎日夫とおもしろがって世話をしていました。成長しはじめた子犬たちが庭を掘り返す度に大声で叱ったりしていたので、毎日庭で繰り広げられるそんな大騒ぎがウハチさんの家の2階の窓からは良く見えていたはずなのです。わたしたちに声をかけてくれるようになったのはその頃でした。

 

23)ヤマシタ道

「まあ今でこそ言えるんだけど、サラクサク峠の戦闘は軍司令部が逃げるための時間稼ぎもあったんだね」と、ウハチさんは言います。
「司令部って、どこのですか?」
「山下大将のいる十四方面軍司令部だよ。最初バギオにあったんだ」バギオはルソン島でも高地にある風光明媚な観光都市で、日本がフィリピンを占領してからは軍司令部をここに置いたのです。
「ヤマシタね、名前は聞いたことはありますけど、どんな人ですか?」
「日本が最初に連戦連勝した時に『マレーの虎』と呼ばれた有名な陸軍の将軍だよ。満州にいた関東軍の大将だったんだけど、『ゲキ』がルソンに来る少し前に着任してるんだよ」
もう終末戦になっている段階で、どうしてそんな人を?」と思いましたが、少しそのことを知っているらしい夫によると、大本営はフィリピンのレイテで一大決戦したかったらしい、そして当時それに反対していた当時のフィリピン軍司令官を解任して『マレーの虎』で名を馳せた山下奉文を持ってきたのだということでした。

バギオから山越えして東のピンキャンに抜けるルートは、サラクサク峠から北に直線距離で30キロほどのところにあって山岳地帯を東西に横切る山道です。
「じゃあ、すべての命令はこの人から出ていたんですね。ひょとしたらその山下大将たちは自分たちの脱出ルートを確保させるために回りの布陣を決めていたわけですか?」
「そりゃあ、戦争っていうのは大将を守らないと負けだからなあ」ウハチさんは、そうともそうでないとも言いませんでした。

その道は狭くて険しい山道で、そこを使って食料の米をバギオまで運ぶには牛車を使うしかなかったということです。それで急ピッチで道路の拡張工事をしていたのですが、皮肉なことに工事が完成した日に最初にそこを通ったのは、山下大将以下の司令部で、バギオからの脱出に使ったのでした。たった一度、逃げるために片道にしか使われなかった自動車道が「ヤマシタ道」と呼ばれた道でした。

24)重見支隊

ウハチさんの話をここまで聞いてきて、やっと軍の組織の全体が見えてきたように思いました。
「ということは、ウハチさんたちの撃(げき)兵団は十四方面軍の指揮の下にあったわけで、そしたら司令部命令というのは、山下大将が出していたんですね」と、ずっと気になっていたことを聞いてみました。この無謀で凄惨な作戦計画は誰が立てたのだろうということなのです。
「でも司令部というところには参謀(さんぼう)たちがいるからね、作戦を立てる時に参謀の意見がずいぶん影響したんだってよ」と夫が言うと、ウハチさんもうなずきながら、
「そうさ、シゲミ支隊が玉砕(ぎょくさい)したのだって、山下大将のまわりにいた参謀が悪かったんだよ」
「シゲミシタイって?」
「シゲミ少将が『撃』から出向く形で『旭』に行ったんだよ、戦車第7連隊を引き連れてね。アメリカ軍がリンガエンから上陸したばかりの頃さ。でもね、他に行かされると必ず前面に出されて死ぬような目に遭うんだよ。あれが戦車部隊が負け始めた最初だね」ウハチさんの口から出てくるこの「シゲミ」という音には何か特別の感情が込められていました。それが何なのかすぐには分かりませんでしたが、
「シゲミさんはね、戦車は歩兵部隊のいない夜間突撃作戦には向かないって反対したんだよ。それで司令部とぶつかっていたんだ」と、同情しているように見えました。

重見支隊のことは、どのルソン島の戦闘記録にも必ず書かれてあります。そこには未だに解決していない何かわだかまったものがあるようなのです。アメリカ軍とルソン島西海岸で対峙したこの初期の作戦では、山下大将の側近同士でもその戦略の是非をめぐってもめていたようです。アメリカ軍のものすごい数の飛行機と大型のM4戦車に対して、全く空からの援護のない戦車隊です。しかも小さな八九式中戦車(ハチ車)では太刀打ちできるはずもなかったのです。

しかし司令部の思惑通りに攻撃に出ない重見少将にとうとう方面軍司令部への出頭命令が出てしまいます。これは命令違反の罪で支隊長を解任、さらに軍法会議にかけるということなのでした。一方、司令部と重見支隊との暗号電文でのやりとりを聞いていた『撃』の師団長は重見少将の立場を察して支隊がもとの師団へ復帰できるよう願い出ていました。やがてその許可が下り、師団の方では大喜び、すぐ支隊にその旨の連絡をしたということです。しかし支隊は特攻攻撃に出て部隊は全滅、先頭の戦車に乗り込んで突撃の指揮をとった重見少将は戦死してしまいました。

記録が錯綜していて、よく分からない部分もあるのですが、どうやらこの司令部からの出頭命令も、師団からの原隊復帰命令も、そのどちらもがシゲミ支隊には届いていなかったらしいのです。もともと夜間の戦車だけの突撃命令に反対していた重見少将が、なぜ突然全部の戦車を引き連れての玉砕攻撃に出たのかがけっきょくわかりません。
もしかしたら司令部からの出頭命令が届いていなくても、このままでは命令違反で軍法会議にかけられるのは間違いないと重見少将は思っていたかもしれません。地位も名誉もなくしてしまうのならばいっそ軍人として華々しく死んで行こう、という自殺的行為に向かったとも考えられます。または現場の作戦指導者として、周囲の状況からこれ以外の行動選択の余地はないと考えたのかもしれません。

ウハチさんの本棚には戦友会から出された記録や手記の他に、「ルソン戦記・ベンゲット道」(高木俊朗著)という分厚い本が残されていました。生き残った兵隊たちから取材して書かれたルポルタージュです。兵隊たちからは見えない部分、後方の司令部内の様子が特に細々とあばくように書いてありました。
上官命令で斬り込みに何度も行かされたウハチさんには、重見少将が司令部命令に最後まで抵抗しながらも、とうとう意を決して突撃して行った気持ちが良く分ったのだと思います。

25)イムガン川

「司令部はそのあとどこに行ったんですか?」
「ずっとバギオにあると思ってたんだけど、4月にはもうバンバンに移ってたんだね。最後はずっと北のキャンガンの山の中にあったらしいなあ」

 

司令部を守るためにバギオの周辺に配置されていた部隊にも知らされていなかったそうです。報告に行った兵隊が、そこに司令部がないのを見て驚いたという話が残っています。混乱と焦りの中で動いていた司令部の人たちの顔が浮かんできます。その頃は電話ケーブルもあちこちで寸断されていましたし、無線機も破壊されたり充電ができなかったりして使えない部隊も多かったのです。そんな状況の中では、どの部隊もお互いの連絡どころか重要な司令部からの命令さえ受け取れなかったのでした。

サラクサク峠から撤退する時にも輜重隊だけは背中に食料や弾薬を担いで暗闇の中を下りました。
「おれたちは最後までまとまって行動したから良かったけどね、山の中に入ったっきり終戦まで出てこなかった部隊もあったんだよ」と、本隊からはぐれて行動していた人たちのことを話してくれたのです。

それは軍隊の秩序の崩壊のことでした。生きて行くためには敵のものばかりでなく、死んだ日本兵や、ときには弱った仲間からものを強奪する兵隊もいたらしいのです。
「おっかなくて一人でなんかいれないよ。山ん中を歩いていると、突然2、3人でふらっと現れるんだよ。『どこの部隊だ?』って聞くんだけど、はっきり言わないんだよ」
「気持ち悪いですね。それ日本兵なんですか?」
「そうだよ。部隊から離れてしまって、どうやって生きているか分んない連中だよ」

兵隊たちは、もう雨期に入っていて水かさが増えているイムガン川を、胸まで浸かりながら30回以上も渡り返して北へ進んで行きました。生き残った兵隊にもマラリアや発熱で動けない人も多く、負傷した兵隊でも自分で歩けない人はそこに置き去りにするしかありませんでした。片足を無くした松葉杖の兵士が濁流の中を渡ろうとするので、部下に指示して支えさせたという記録も読みました。どの人も飢えと疲れで、自分の体をやっと動かしている状態だったのです。

26)本隊追求

「おれたちはね、アダチさんのいる元々の部隊に戻ろうと思って山越えしたんだよ」

アダチ中隊はサラクサクの戦闘で半分に分けられたままでした。ウハチさんのいた残留部隊はサラクサク峠の陣地への人力での荷揚げ部隊でしたが、アダチ隊長率いる部隊の方は軽戦車とキャタピラ式の輸送車やトラックを使った輸送任務についていたのです。
「アダチさんって、元々の上官だった人ですよね」
「やっと自分の部隊に合流できたときは嬉しかったなあ」
しかしその頃には、バレテ峠を越えてすぐ近くまでアメリカ軍の戦車隊が近づいていました。

6月4日の夜、アダチ中隊長は独自の判断で、ドバックスを引き上げることにしました。
「もうアリタオまでアメリカ軍が来てるって情報が入ったんだよ。8キロしか離れてないんだ。北に逃げるしかないよ」イムガン川を下った撃兵団はサリナスでの戦闘準備に入っていたのでしたが、そこまでの輸送ルートが完全に分断されようとしていたのです。

「アダチ隊長がね、 おれたちの中隊だけで残っている食料と燃料をずっと北のキャンガンまで運ぼうというんだよ。アメリカ軍は毎日10キロづつこっちに近づいているのが着弾の仕方で分るから、のんびりしちゃあいられなかった」

軽戦車を先頭にして、その後ろからキャタピラ車1台、装甲車が1台、それから15台のトラックが続きます。兵員は90名ほどだったそうです。ライトをつけることはできませんから、暗闇のなかを砲撃で道路に穴が開いていないか確かめながらゆっくり進んで行きました。積み荷は、ドラム缶15本の燃料と食料でした。あとは無線機と発電機とバッテリーです。この時も、武器や弾薬よりも食料が最優先されていました。
 
全滅状態の中で分散して撤退した兵隊たちは、本隊に合流できずに彷徨っていた人も多かったのです。それでもなんとか大隊や司令部のある方へと手探りで北進して行きました。本隊に追い付きさえすれば何とかなると思っていたのです。食料が乏しくなった戦場で生き残るには、いつも大人数であることと、自分が今いる部隊が元々の所属部隊であることが何よりも安心なことだったのです。戦場では、自分の部隊が故郷や家族の代わりだったように思えます。

6月に入ってバレテ峠を越えたアメリカ軍は、国道5号線の道路をその頃日本人がまだ知らなかったブルドーザーを使って拡張しながら、じりじりと北上して来ていたのでした。そのルート上にある村や町はゴーストタウンのようになってしまいました。ルソン島に移り住んでいた在留邦人の民間人さえもが日本軍の敗走(北進)といっしょに北部山岳地域へと逃げ出していたからです。

27)軽油エンジン

「軽油はけっこう残っていたんだけど、ガソリンが真っ先に足りなくなってね」
 軽油を使うはずの戦車はすぐに壊滅しましたから、軽油の入ったドラム缶は山のように積まれたままだったそうです。しかし輸送用の車両はすべてガソリン車だったので軽油は使えません。しかもガソリンは輸送船の沈没でルソン島には当初から運び込む量が不足してもいたのでした。
 「じゃあ、どうしていたんですか?」
「整備隊がガソリン車のエンジンを改造して軽油でも動くようにしたんだよ。それからはずっと軽油とガソリンを混合したのを使っていたんだ」

バレテ峠がまだ突破されていなかった頃、そこから北西に30キロほどのジャングルの中では、兵器の製造や車両の修理や整備などが行われていました。兵隊の中にはいろいろな技術を持った人や職人や学者なども混じっていたのです。

戦場の限られた設備でやるのですから、何度も試作を繰り返して改良を重ねます。しかも使う材料探しも、昼間はアメリカ軍の飛行機が偵察して回っているので、夕方から集めて回ったそうです。

最初は薪を燃やして動く車も開発したそうですが、炉に使ったドラム缶がすぐにさびてしまって1ヶ月しかもたなかったそうです。ガソリンエンジンを軽油エンジンに改造するのには、シリンダーヘッドの内部に砲弾の薬莢を加工したものを埋め込みシリンダーの内圧を高くする工夫をしたのだそうです。さらに軽油の粘りをとるために温める必要があったので、燃料パイプを排気管の中を通したり巻き付けたりと、まさに手作りのエンジン工場です。それでも始動するときは軽油だけでは無理で、ガソリンをキャブレターに直接注入してエンジンを回したそうです。

整備隊の手記を読むと、『前線の兵隊のことを思えば、20時間労働でも平気だった』とも書いてあります。バレテ峠のすぐ近くで、異常な熱意と集中で働き続けている兵士たちがいました。この整備隊からも三分の一の兵員がサラクサクの戦闘にかり出されてそこで歩兵部隊に混じって戦闘し、やがて全滅しています。その死地に赴いて行った仲間たちのことを思い、作業にさらに身が入ったそうです。

他にも迫撃砲弾や手榴弾を自作したりなど危険な作業もありましたが、しかしそこでもすでに食べ物は乏しく、食料不足で体力が低下して病気になったり、製作中に火薬や燃料の取り扱い事故で吹き飛ばされる兵士もいたのでした。

100日も陥落しなかったバレテ峠とサラクサク峠の後ろには、輜重隊の必死の人力輸送と、兵器や車両を改良したり作ったりしていた整備隊の存在があったのです。しかしこの整備隊の工場も、6月1日には閉鎖されました。満州からずっと使い込んできた工具や設備を穴に埋めて、必要最低限の工具だけを持って出たそうです。

28)サリナスの塩

「『撃』はね、バレテとサラクサクの後すぐに山に逃げたわけじゃないんだよ。サリナスでも戦ってるんだ」
「えっ、サラクサク峠での戦闘でそうとうやられたんでしょう?まだ戦えたんですか?」と、驚いてしまいました。イムガン川でも、かなりの兵隊が溺れたと聞いていたからです。

「たしかにもう『撃』は壊滅的だったけどね、それでも再編成すればまだ戦えると見られたんだよ」
「再編成ですか、、、武器や弾なんかまだあったんですか?」
「日本は戦車から重機関銃を外してそれを持ち歩いてまでして戦っていたんだ。こっちはわざと地形の悪いところに陣地をはっていたわけだね、、、、サリナスは最後の決戦だね、あれで負けて完全に戦力を使い果たしちゃったんだ」

サリナスを地図で探すと、軍司令部がバギオから山越えして逃げたルート上にありました。
「やっと持ちこたえていた輜重隊も、あそこではずいぶんマラリアと熱病で死んでるんだよ」
輜重隊の兵隊は3人ひと組になって、牛用の荷車を引いて運んだそうです。増水した川を渡るときには、またもや背負子での人力輸送でした。

そんなボロボロに疲れていた輜重隊に、司令部から特別の任務が届きます。すでに敵兵がいるサリナスに忍び込んで、製塩所から塩の袋を運び出してこいというものでした。これから山岳地帯を通って転進して行く部隊にはどうしても塩が必要でした。

「まだ動ける元気な輜重隊の兵隊は、全員で紐だけを持って他に何も持たず丸腰で出かけたんだそうだよ。暗い中をずっと匍匐前進で何とか敵に気づかれずに運び出したところで、軍用犬に嗅ぎつかれちゃって、一斉射撃を受けたんだそうだ。それでも全員無事に帰還したんだからね、ヤマモト中隊も大したもんだよ。あの塩がなかったら後の行軍で確実にもっと死んでたな」
ルソン島の日本軍には、食料だけではなく塩さえも不足していたのです。6月20日の深夜のことでした。



 

 
 
 
 
 
 
 

となりの戦車隊長/バレテ峠と同じ夏

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