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40)カンルバン捕虜収容所への旅
《第6章:カンルバン》
36)ドラム缶のナパーム弾
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もうすぐ終戦だと分っていたなら、あんなに酷いアシン渓谷なんかに逃げ込むこともなかっただろうにと思ってしまいます。記録を読む限りでは、記録の書き手も周辺の兵隊たちも、アメリカ軍に投降することなど考えもしなかったようです。もしあとひと月でも終戦の日が早ければ、多くの人が病気や飢えで死ななくてすんだのです。どの部隊もサリナスを出てから多くの死者を出しているのですが、その死因のほとんどが「戦病」となっています。マラリアや飢えで亡くなっていったのです。

方面軍司令部のあるアシン渓谷の奥地に入って行くと、辺りにものすごい悪臭が立ちこめていたそうです。山道を登って行くと道ばたに倒れている人がいたので近づいてみると伸ばされた手の一部がもう腐り始めていて、ギョッと飛び退いたと書いてありました。奥に進んで行くと次々と死体が現れてくるのですが、誰も埋葬することも片付けることもできないのでそのまま腐って、やがて白骨化していくのです。この谷のことをみんな「地獄谷」と呼ぶようになったそうです。

司令部の回りに複郭陣地(ふくかくじんち)を構築すると言っても、戦闘能力を失っている日本軍にとっては後はただ時間の問題だったのです。アシン渓谷のマゴックで手榴弾の製造をしていた整備隊も、7月下旬には持ち込んだ材料がもうすっかり無くなってしまったので最後の工場を閉鎖しました。整備隊でさえ後はだた食料を求めて敗走の旅をしたそうです。

そんな究極まで押し込まれた状態のアシン渓谷に空からナパーム弾が落とされ始めたのもちょうどこの頃からです。アメリカ軍はそれまでの爆撃に代わって、密林に逃げ込んだ日本軍のいぶり出し作戦に出たのです。ナパーム弾と言っても、ドラム缶を使った急ごしらえのものでした。これはサラクサク峠での戦闘でも使われています。山の斜面一帯を焼け野原にして、隠れる場所がないようにするための兵器です。

野戦病院の病人や看護士たちも避難していたのですが、ドラム缶のナパーム弾はそういう人たちが隠れている樹林にも落ちました。燃え上がる炎の中で、逃げるにも体が不自由で動けない人たちが死んでいったのです。早く戦争を終わらせるためにという目的だとしても、そこにはただ飢えたり倒れたりしている人が逃げ惑っているだけだったのです。もうほんとにあと2週間で終戦なのです。

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37)アシン渓谷の在留邦人

アシン渓谷に逃げ込んだ在留邦人は2000人ほどでしたが、その人たちのほとんどが日本軍がルソン島に上陸する前の、アメリカ領の時代から暮らしていたのです。もうすっかりフィリピンの生活にとけ込んでいたはずの人たちが、どうして日本軍といっしょに敗走しなければならなかったのかと思ってしまいます。

在留邦人の人たちは最初は皆いっしょに避難したそうです。それまで住んでいた家も築き上げた財産も、小さな荷車には乗せられません。やがて車も通れない山道になったので、さらに荷物を減らさなければなりませんでした。避難生活が長引くにつれて、老人からだんだん亡くなって行きました。子供だけが残されていたりしたそうです。

「ルソン戦記ベンゲット道」(高木俊朗著)のなかに在留日本人の家族の凄惨な逃避行のことが出ています。逃げるのに着の身着のままのワンピース姿の奥さんが、山中を彷徨っているうちに夫を失い、可愛い女の子を二人連れて密林の中の小屋で、チョコレートの空き缶で蛙と雑草を煮て食いつないでいた、やがてこの人も病に倒れ、二人の女の子が母の死を看取るという場面を読むと、ウハチさんの話には出て来ない戦争の裏側の出来事に胸が塞いでしまいます。

フィリピンはずっとスペインの植民地だったのが、1898年にアメリカに売却されたのです。国が売りに出されるということにも驚いてしまいますが、そういう交渉を自分に有利に進めるためにいつも戦争をしているようです。ちょうどその頃に、日本人の労働者がルソン島に渡ったのでした。ルソン島の「ベンゲット道」の開通までにはたくさんの犠牲者が出たそうです。あまりにも過酷で危険なのでとても無理だと思われたのですが、日本人ならできるということで呼び寄せられたのでした。そして開通した時は皆抱き合って喜んだのだそうです。

その後そのまま住み着いたその人たちが家庭を築きやっと安定して来た頃の1942年に、今度は日本軍がフィリピンに上陸したのです。日本の占領はわずか数年のことですが、ルソン島に住んでいた日本人の生活は大きく揺さぶられたのに違いありません。彼らの息子たちも現地召集されました。移住しているとは言っても、日本人としての誇りはいつまでも持ち続けていたのです。しかし8割以上の戦死者を出しているのですから、この青年たちもほとんど生きて帰っては来ませんでした。

38)戦争が終わった日
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南アンチポロの密林の中で迎えた終戦の日のことを、ウハチさんは話してくれました。ウハチさんたちはその朝いつものように食事の準備をしていたそうです。
「その日はね、朝から妙に静かだったんだよ。いつもなら朝から聞こえる砲撃や銃声がどこからも聞こえなくて、グラマンもP38もぜんぜん飛んで来ないんだ。そろそろ戦争は終わりそうだとは思っていたけどね、これがそうかと思ったよ」
「もう分ってたんですか」
「そうさ、みんなもそう思っていただろうけど、誰もそんなこと口に出しやしないよ」

8月15日の朝、北アンチポロに展開していたアメリカ軍が一斉に後退を始めました。アンドントッグ方面にどんどん後退して行く様子なのです。
「最前線だったところからは大きな煙が3本も立ち昇っているしね。そしたら次の日に飛行機がビラを撒いていったから、いよいよかと思ったよ」翌日の16日にアメリカ軍のC51双発輸送機が撒いた大量のビラには、『永久講和なる。兵士は将校のもとに集れ。将校は上官の命令を受けよ』と、ただそれだけが書かれてあったそうです。

 

しかしいまだに数万という兵隊が山の中で自給自足の生活を続けながら、まだゲリラ戦をやろうとしていたのですから、その日本軍を混乱なく平穏に下山させて収容できるかどうかが、アメリカ軍にはいちばん心配でした。武装解除は、時間をかけて慎重に進められました。戦争が終わるまでの手続きの永さは、戦争をやっていた時間と同じか、それ以上にかかっています。

戦争がどうやって終わったのか、本当の所はわたしも漠然としか知りませんでした。広島と長崎に原爆が落とされたのを脅威に感じた天皇が、あの「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び」と書かれた「終戦の勅令」を出したから戦争は終わったのだろうと思っていました。実際に日本から遠く離れたルソン島のアシン渓谷の奥地3RH(第三レストハウス)にも、その勅令は届きました。十四方面軍司令部が最終的にあった場所です。

 

すぐに各師団の参謀長が招集されたので「撃兵団」からも新藤参謀長が山越えして出かけていきました。山下大将から直接の戦闘中止命令を受けて「終戦の勅令」の写しを渡され、数日がかりでまたアンチポロに帰ってきました。この勅令がさらに謄写印刷されて輜重隊本部に届き、ウハチさんのアダチ中隊にも一部配布されたそうです。1週間後の8月23日のことです。

アメリカ軍の使節が「撃兵団」の司令部にもやって来ました。投降の段取りを指示するためです。その時通訳として同行していたのは戦争の早い段階で捕虜になった日本兵だったそうですが、その人が参謀の飯盒を覗き込んで、
「日本軍はまだ芋粥ですか」と言ったのを横で見ていて、その無神経なもの言いと丸まると太った姿が不愉快だったと書いてある記録がありました。敗者と勝者のどっちに付いているかで、同じ日本人であっても気持ちも態度もすっかり違って見えるのでした。

それでも戦争が終わった瞬間はどの人もうれしかったようです。無事に通訳をやり遂げてアメリカ軍陣地に帰り着いたその人を囲んで、大きな歓声が上がったということですから。そして控えめな表現ですが、「正直ほっとした」と書いているアダチ中隊長も、ウハチさんといっしょに終戦の日を喜んだはずです。

39)アメリカ軍の捕虜になった日
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ウハチさんたちの輜重隊が山を下りたのは9月15日のことです。
「それまで1ヶ月もアンチポロで何をしていたんですか?」
「ただ食いつないでいただけだけどね、まだ輸送任務もあったんだよ。3RHに物資を受け取りに行ったりもしたしね。山道を登って行く途中で偶然に方面軍司令部の参謀たちに会ったよ。アメリカ軍に投降するために山を下りているところだった」
「その中に山下大将もいたんですか?」
「いや、山下だけは1日早く下山したそうだよ」
山下奉文の8月31日の投降で、ルソン島の戦闘は完全に終わったことになりました。

その同じ日に南アンチポロでは、撃兵団の合同慰霊祭が行われていました。輜重隊からは石田輜重隊長と山田大尉が代表で参列しています。ルソン島上陸からわずか8ヶ月の間に82パーセントもの戦死者を出した撃兵団なのです。生き残った人たちの祈りは悲痛だったでしょう。

投降に備えて兵隊たちがまず何をやったかと言うと、銃身にはめ込まれていた菊の紋章を削り落とす作業です。それは、天皇の印としての紋章を決して敵の手に渡して汚されてはいけないということのようです。今の時代の私たちからすれば実感を持って想像することができないものですが、日本の軍人として何よりも大事なものがそこにはあったのでした。

ウハチさんも紋章を削ったはずですが、夏の縁側での話題の中では、天皇に直接触れるようなことはありませんでした。ウハチさんは、いつもどこか話しの仕方に用心深さがあったように思います。それは時代や状況があまりにも違う私たちに、自分のほんとうの気持ちを語ることで、誤解されたり不仲になることを怖れてのことかと思っていましたが、今思えば、ウハチさんの気持ちにもいまだ揺れ動いて定まらない部分があったのかもしれません。

アンチポロはずいぶん山奥でしたので、武装解除を受けることになっているイブン小学校というところまでは、途中の山中で1泊しなければなりませんでした。次の日の夕方に到着した小学校の校庭では、日本軍の小銃がまるで鉄くずのように山積みされていきました。
部隊もバラバラにされて、互いに全く知らない人同士のグループに分けられました。日本軍の組織を完全に解体するわけです。それからウハチさんたちはトレーラートラックの荷台に乗せられ、その夜のうちにソラノのアメリカ軍仮収容所に運ばれたのです。小さなテントが立ち並ぶ収容所では、捕虜としての最初の食事の缶詰が配られました。

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9月17日の朝、GMCの大型トレーラーに乗せられたウハチさんたちは、カンルバンにあるアメリカ軍の捕虜収容所に向かいました。ソラノからバレテ峠を越え、サンホセまで110キロの旅です。それはこれまで戦ってきた戦場を逆に辿って眺めることにもなりました。

サンタフェからバレテ峠へ向かって国道5号線の急坂を上り始めると、サラクサク峠に続くイムガン道が見えてきました。輜重隊が激しい砲撃の中を前線に輸送したルートなのです。それに、まだそこには死んだ仲間がそのまま放って置かれているのですから、何も想わずに眺めた人はいなかったでしょう。アダチ隊長もトラックの上でじっと目を閉じたと書いています。

バレテ峠を越えると、辺りの風景はすっかり変わり果てていました。黒こげの幹だけが立ち並ぶ焼け野原となった山並み、道路は道幅が2倍以上にも拡張されて脇には排水路まで作られていました。途中の数カ所に大型ブルトーザーが20数台も整然と並んでいるのを見て、人力だけで道路を作ってきたウハチさんたちは改めて戦力の違いを思い知らされたそうです。

平野部に下りてサンホセから先は、こんどは鉄道に乗り換えさせられました。マニラの南50キロにあるカブヤオまでです。屋根のない貨車にぎっしり座っていると、そこにカービン銃を持ったアメリカ兵が護衛兵として一人乗り込んできました。ゆっくり走る列車に向かって、沿道に詰めかけた現地の人たちから絶え間なく罵声が浴びせられます。よく分るようにとわざわざ日本語で叫んでくる声もあるのです。

手記を残している人たちの多くが、その罵声の耐え難さについて書いていますが、その中でおもしろいのがありました。あまりに口汚く罵られるのでみんな下を向いてしまっているのを見たアメリカ兵が、
「何をしょげているんだよ。お前たちも言い返してやれ」と元気づけてくれたそうです。それからはその貨車だけはみんな顔を上げて、罵声にも動じなかったと書いてありました。捕虜という身分がどういうものなのか、これからどういう扱いを受けるのか、将校と一兵卒ではこれからの処遇を考えたときにその緊張や不安は、人によってずいぶん違っていたかもしれません。

ラグナ湖の西に広がる平地カンルバンでは、周辺の甘藷畑をきれいに整地してカーキ色の大型テントが立ち並ぶ大規模な捕虜収容所ができていました。日本軍の捕虜を収容するために急いで作られたものです。

捕虜生活の長さは人によってまちまちで、ひと月後の10月にもう日本に帰ることのできた人もいますが、2年近くもここに留められていた人もいたのです。そういう人は戦犯の疑いが晴れなくて、なかなか帰してはもらえなかったのでした。
ウハチさんがここカンルバンでずいぶん永い間暮らすことに自分がなるとは、着いたその日には思ってもいなかったでしょう。

41)捕虜への尋問
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カンルバンの捕虜は、将官、将校、その他の3つの区画に分けられて収容されました。さらに周到にグループ分けされてもいたそうです。同じ部隊だった人間がひとつのテントに絶対にいっしょにならないようにするためです。そして各テントごとに代表を選ぶようにと言われました。作業班の編成や連絡や、食事の分配などをスムーズに行なうためですが、戦争は終わったのにどこのテントでも階級が高かった人を選んでいたそうです。

指揮官だった人たちには、部隊の名簿を作成するという重要な仕事がありました。アメリカ軍はこれからその名簿を元にして、ここに収容されているすべての日本兵を裁くことになるのです。

捕虜収容所での尋問の様子を戦車第6聯隊だった松本正さんが記録(撃友会会報第26号)に残していました。

尋問される部屋に入ると10人の日系2世が机を前にして横にズラリと並んでいて、名前や所属部隊や入隊した時期、出身地や家族構成まで次々と聞いてきます。しかも同じ質問をとびとびに繰り返して来ます。彼らは他人に成り済ましている兵隊を探しているのでした。

やっと尋問が終わったと思い廊下に出ると、すぐ前に尋問を終えた人が、
「無事に答えられました」と、ホッとした様子で小声で話しかけてきました。しかし実はまだ先があったのです。出口近くの机の上に置いた椅子に座り、ガムを噛みながら足をブラブラさせている日系2世がいました。

前の人にまだ何も書かれていない尋問調書の用紙を3枚手渡すと、
「下の左下のネームと書いてあるところに名前を書きなさい」と彼は言いました。1枚目に「川島三蔵」と書いた紙を手を伸ばして受け取りながら、
「2枚目も同じように書きなさい」と言い、その人が「川島」とまで書いたときに、
「川島さんですね」と呼びかけたのです。するとその人は一瞬遅れて、慌てて顔を上げ、

「は、はい何ですか」と返事をし、お辞儀をしたということです。

「続けて書きなさい」3枚目を書き終わると、左の出口を指示されてその人は出ていきました。

次の松本さんも2枚目を書き始めたときに、同じように声をかけられたのですが、下を向いたまま「はい」とすぐに答えてから頭を上げ、「何ですか」と聞き返したそうです。同じように進行したようだったのですが、ふたりの出口は違っていました。松本さんは前の人が出て行ったのと同じ左の通路に向かおうとすると彼は笑って、
「あなたはこちらから出なさい」と右の通路を指し示しました。

外に出ると、すでに尋問を終えた人たちが草原に3列に並んで待っていました。
「小隊長良かったですね」と、みんなに出迎えられたのです。何のことかと思っていると、
彼らが目で示す方には厚く鉄条網で囲われた場所があって、その中で先ほどの人がこっちを見つめて泣いていました。後で分かったことですが、その人は自分が憲兵隊の軍曹だったのを隠すために、戦死した人のことを同じテントの人から教えてもらいその人に成り済まそうとしていたのでした。

憲兵隊は軍隊の中の警察のような存在で、現地では色々と乱暴なことをしていたようです。ゲリラ討伐と称してイゴロット族の村を襲撃したときも、憲兵隊が率先して行動していました。当然そのことで訴えられてもいたはずです。

松本さんは書いています。自分が工科学校ではなく憲兵学校に合格していれば、彼と同じ運命を辿ったのではないかと。わずか0.何秒かの反応の違いで判断したあの2世はただ者ではない、きっとアメリカの大学で心理学を専攻していたのではないかとも。

42)アメリカ軍属
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カンルバン捕虜収容所での戦争犯罪の調査と尋問は1946年の4月頃まで続けられました。容疑者として収監された人やいまだに嫌疑が晴れずに収容所内に止められている人がいる一方で、他の人達は昼間は土木と農作業の班に別れて収容所の外に出て働き、夕方にまた戻ってくるという生活を送っていました。

ここまで来るともう皆の最大の関心事はただ一つ、いつ日本に帰ることが出来るかということだけでした。早い人は終戦から二ヶ月後に帰還していますが、最も遅い人は一年半後にやっと帰ることができたのです。乗船名簿が発表されてそこに自分の名を見つけて大喜びする人もあれば、がっくり肩を落とす人もいました。

同じ頃ウハチさんだけは全くちがう場所にいました。収容所の庭で声をかけてきた日系米兵の口利きで、電気技師として現地採用されていたのです。捕虜の服を脱いでアメリカ陸軍の服に着替え、発電所建設の仕事で毎日忙しく動き回っていたのでした。
「山のずっと上の方まで送電しても電圧が落ちないように大きな発電機をいくつも繋いで作ったんだよ。何度もテストを繰り返して、やっと使えるものが出来たときはうれしかったなあ」
元々関東配電の社員だった人ですから、発電に必要な機材を揃えたり設置するのが専門でもあり得意分野でもあったのです。その人の知識と技術のレベルがどのくらいのものかはいっしょに働いてみれば分かるものです。しばらくするとウハチさんはすっかり米兵たちにとけ込み、だんだん彼らに頼りにされるようにもなって行きました。

ウハチさんが食事をしていると通りがかった兵隊が声をかけてきました。
「お前の席はここじゃないよ。あっちに来いよ」ランチの皿を持った白人の兵隊でした。用心深いウハチさんは、いつもいっしょにチームを組んでいる黒人の兵隊たちと同じテーブルにいたのです。
「おれはここでいいよ」と断ったそうです。
「将校用の食堂ってのは別にあってメニューも違うのは分かるよ。でも同じ階級の兵隊が自分たちで黒と白に分かれるんだからなあ。初めて見たときは変な気がしたよ」

仕事の時間外では上官ともフランクに話している米兵たちの自由なものの考え方には感心したウハチさんも、その食堂の雰囲気にはすぐには馴染めませんでした。それでもここで生き延びるためには彼らの習慣を急いで覚えねばならないと思ったのです。

 

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となりの戦車隊長/バレテ峠と同じ夏

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