《第2章:ルソン》
8)徴兵検査

「おれは何度も死にかかった」というウハチさんのひとつひとつの話をつないでみると、避けようもない運命でという時もありますが、自分でそういう場所に飛び込んで行った時だってあるのです。徴兵検査の時がそうです。

検査官に詰め寄って強引に合格にさせたという経緯があるのです。甲乙丙の「丙」とされて兵役を免れることができたはずなのにウハチさんは、
「帰ってからみんなにバカにされるのが嫌でね、『どうしてもこのまま帰るわけにはいかないんだ、何とか合格にしてくれ』としつこく頼んだんだよ」と言います。
「なんでわざわざ・・・」わたしは思わず言ってしまいましたが、
「検査官にも『逆は多いけど合格にしろというのは珍しい。ほんとに良いのか?」と言われたよ。おれは体は小さいけれどとても丈夫なんだって言ってやった」

もうすっかり白髪のおじいさんなのに、そう言っている時は鼻っ柱の強そうな顔をしていて、「この人は子どもの頃からこうだったんだろうな」と思わせられました。ふとした時に顔を出すウハチさんの自尊心は子どもの頃に培われたものなのでしょう。いわゆるガキ大将だったらしいのです。村の子どもを引き連れては隣村まで殴り込みをかけたりするほどの乱暴ものだったそうで、
「オヤジも怖かったけどなんとかごまかせた。けれどお寺の住職だけには頭が上がらなかったな」と言っていました。「どうにもならないガキ」として坊さんからしっかり烙印が押されていたのです。オヤジさんは県の役職や村長を務めるような人で、鬼石ではかなり古い家だったんだそうです。

「鬼石(おにし)」と聞いて、すぐに少し前にわたしたちがオートバイで走ったルートの途中にあった村だと思い出しました。谷の深いところを蛇行して流れて行く川を眺めながら、夫とふたりでツーリングをしたのでした。なみなみと溢れるような湖水は澄んだ青緑をしていました。あのキラキラ光って流れていた川で、ウハチさんはウナギの仕掛けをを川底に沈めたり子どもらと泳いだりしていたのだと思うともっと美しかったであろう昔の風景が頭の中に浮かんできます。

少し下流に行くと川をせき止めてできた大きなダム湖があったことを言うと、
「おれの生まれた家はそのダム湖に沈んでいるんだよ。道のずっと上の方に新しく建てた家に今は兄貴がひとりで住んでいるんだ」と話してくれました。

9)漂流

徴兵検査で落とされそうになったにもかかわらず、昭和17年、日本軍では初めて編成された戦車機甲師団に配属されることになったのは、ウハチさんに電気の技術があったからでした。兵隊になる直前まで、関東配電株式会社(後の東京電力)の社員だったのです。
戦車は「砲兵が一人、電気や計器をいじれる兵隊、操縦をする兵隊の三人で乗りこむんだ」ということですからウハチさんは機械の整備を専門としていたのでしょう。

家に残されていた戦友会の資料の中に「耐寒力調査、足立隊」という一枚の手書きの書類のコピーを見つけました。100名ほどの兵隊の評価を書き付けたものでした。ウハチさんの評価は「強兵」と書かれています。その下が「中兵」で、さらに下が「弱兵」になっています。階級は「上等兵」でまだ訓練中の時期のようですが、日付が昭和18年12月22日とあります。文字がかすれていて読みにくいのですが「凍結標準時間4分」これは水が凍るまでの時間のことでしょう。指先が凍りそうなのを堪えて「足立隊舎前」でキオツケの姿勢で立っているウハチさんの姿が浮かんできます。

しかしウハチさん本人から聞かされた満州の話は、
「軍用トラックの排気口に鉄でこさえた箱を取り付けたんだよ。その中に弁当を入れておくと昼にはほかほかになるんだよ。芋もよく焼いたよ。中に入れておけば、向こうに着く頃にはちょうどいい具合に焼き上がってるんだよ。おれたちの車だけで内緒にやってたんだけどね、他の班はコチコチに凍った弁当を食べてたんだ」と、自分のアイデアを愉快そうに話すのでした。

戦車第二師団が極秘の命令を受けて満州からフィリピンに移動を開始したのが昭和19年8月です。終戦の1年前、かなり戦局が厳しくなってきた頃で、本土決戦をいかに引き延ばせるかがウハチさんたちが担っていた任務だったのでした。記録では4つの船団に分かれて海を渡ったのですが、最初に出発した船が台湾沖で沈没してしまいます。ウハチさんも海に放り出されてしまったそうです。

「すぐ近くに浮いていた板きれにつかまったよ。そのうちに手にだんだん力が入らなくなってきてね、このまま死ぬのかと思ったよ」それは真夜中のことだったのです。しかも海が荒れていたということもあり、兵隊たちも広い範囲に流されてしまいます。救助船がやってきたのは3日後だったのですが、
「将校だけ助けて行ってしまったよ。あいつらひどいんだ。漂流している時だって自分らだけ大きな板の上に座っていて、つかまろうとする兵隊がいると軍刀の柄で手を叩いて振り落としていたよ」と、特定の顔を思い浮かべている様子なのです。ずいぶん漂流した後に、やっと台湾の漁師の舟に助けてもらったそうです。

最初の部隊が釜山港を出航してから、最後の部隊がフィリピンに上陸し終わるまで100日もかかったと記録にはありますから、日本のまわりの海はもう無事には航行できない状態だったのでした。

 

10)海没

「海に投げ出されたおれたちは、浮いている板にいっしょにつかまりながらお互いを紐で結んだり、声をかけあって絶対に寝ないようにしていたんだけど、ひとりで木切れにつかまって流されていった兵隊はきっと沈んでしまっただろうな」と、ウハチさんは言います。その船には戦車や車両とそれに使う燃料や、武器や弾薬、米などの食料もいっぱい積まれていたでしょうに、それらはみんな海に沈んでしまいました。

戦友会の冊子や、生き残った人たちが綴った戦争記録がこの家にはあります。ウハチさんが残していったものです。名簿のなかの将校や下士官の名まえ横に、戦死や病死と並んで「海没」という文字を見つけました。きっとウハチさんと同じ船に乗っていて亡くなった人たちのことでしょう。まっ暗な海にもののようにゆっくり沈んで行く人間、そのイメージはわたしを脅えさせました。「水死」というように事実を伝えているだけではなく、まるでそれはその人の運命だったのだと言っているように見えて、恐ろしかったのです。

ウハチさんがフィリピンに渡ろうとしていた当時は、すでに台湾周辺も危険な海域になっていました。アメリカの潜水艦がどこにいるか分からない、それで日本の船は潜水艦に狙われにくいようにジグザグ航行をするのだそうです。でもただでさえ速度の遅い貨物船が、そんなことをしていたのではますますルソン島上陸が遅れてしまいます。案の定というべきか、ジグザグ航行をしなかった船が魚雷を受けて沈んでしまいます。なんと沈んだその船に、またもやウハチさんが乗っていたのです。

「戦場に着く前にもう2回も死にかかってるじゃないですか!?」と、思わずあきれて言っていました。ことが生死に関わることだし、失礼だとは思いましたが、ウハチさんの方はまるで愉快な失敗談のようにおもしろく話してくれるのでした。
「そうだよ。おれは何度も死にかかってるんだよ」と、笑いながら同じ口調で繰り返すのです。
「でも将校は良いよ。船は危ないからってこんどは飛行機で飛べるんだから」とは、漂流しているときに板の上にあぐらをかいていた将校のことを言っていたのでしょうか。口元が少しゆがんで、にやっと笑っていました。

あまり皮肉を言わない人が、このときは何か言いたいことがあるようでした。

11)戦友会

「おれはずっと戦友会には行かなかったんだよ」と、いまだに心にわだかまっているものがあるようなのです。

「最初の頃いっぺんだけ行ったことはあるんだよ。会合が終わると次は宴会になるでしょう、そうすると酒を注いでまわる人もいるわけだよ、『おたくはどこの部隊ですか』って。おれの目の前に来たやつの顔をひょいと見上げたら、おれに何度も斬り込みさせたやつだったんだよ。向こうはおれの顔を覚えちゃいないみたいなんだ。『あんたには何度も死にそうな目に遭わせられた』って言ってやった。そしたら妙な顔をして向こうへ行っちゃったけどね。あのときゃずいぶんいやな気がしたよ」

だんだんかつて上官だった人たちも亡くなって行き、やがて親しい戦友から、
「たまには出てこいよ。もうあいつも死んでしまったことだし」と、戦友会の旅行に誘われ、永い間遠ざかっていた戦友会にもやっとこの頃になって参加できるようになったんだそうです。

「その戦友の人って、いつも桃を送ってくれる人ですか?岡山の」と、思いついて聞いてみました。立派な桃をいくつも持ってウハチさんが初めてうちにやってきた時のことを思い出したからです。
「戦友が毎年送ってくるんだよ。少しだけど食べてみてくんない」と、どこかの方言が混じっているやさしい声でした。まだお隣に住んでいる老人としてしかわたしは見ていなかった頃のことです。

「ウハチさんはアメリカ兵にもなったことがあるから、他の人たちとギャップもあるんじゃないですか?」と遠慮なく聞いてみました。みんなが戦場の思い出話で盛り上がっているときに、両方の体験をしているウハチさんはどんな気持ちでいるんだろうと思ったからです。生き延びるためとは言え、敵国に協力して、しかも占領軍の一員として帰国したのですから。他の戦友たちが終戦後のウハチさんの運命を聞いていたにしても、そんな席ではやはり積極的には話題に出せなかっただろうと思うからです。

それに戦争が終わっても軍隊当時の上下階級の意識が残っているようにみえた戦友会の雰囲気になじめないものも感じていたらしいのです。
「アメリカ軍だって階級にはきびしかったよ。でも軍務が終われば違うんだ。将校室で部下の兵士が報告した後、机のうえに座っちゃって上官と談笑してたりしていたからね。軍隊の仕事は仕事、それが終われば平等の市民としての人間付き合いにもどれるんだ」確かにそんな場面をアメリカ映画か何かで見た気がしました。

「日本人はみんな『権利』ということを気楽に言うけれどおれは違うと思うんだ。義務を果たさなければ『権利』や『自由』なんて言えないよ」もうそろそろ帰ろうとして縁側の横に立ち上がっていたウハチさんは、腰が痛いのか痩せている背中に手をあてがってはいましたが、胸を張って演説をするようにそう言ったのでした。


 

12)アオキ伍長

その日は縁側に座るなり、
「ゆうべは驚いたよ」と話し始めたのです。

「山手線の電車に乗って座ってたら、すぐ前の吊り革につかまって戦友のアオキ伍長が立っていたんだ。思わず『おまえいつ帰ってきたんだ?』と聞いたけど何も答えずに黙ったままなんだ。どうしたんだろう、おかしいな、と思ったところで目が覚めた。いやな汗をかいてたよ」

「---たしか彼はフィリピンで死んだはずだが---それも寝ぼけた頭の記憶ちがいかとも思えて、しばらく布団の上で横になったまま考えていたんだけどはっきり確信が持てなくなっちゃってね。まだ真っ暗だったから電気を点けて、それから戦友会の名簿を引っぱり出して調べた。そしたらちゃんと死亡欄に名前がのってたよ。でもそれから何だか気持ちが悪くなって眠れなかった」

ウハチさんの話によく登場する人物のひとりがアオキ伍長でした。終戦の日まで同じ部隊で行動していた兵隊でウハチさんよりもずっと若かったようです。話の中ではいつも「アオキ君」と呼んでいました。

「アオキ伍長がやられた!」という情報が捕虜収容所の仲間うちの噂で伝わってきました。それでなくとも覚悟はしていたつもりでしたが、---アオキがやられたんだったら、すぐおれの番になるだろう---と思うと、それから急に落ち着かなくなってしまったそうです。
「首実検にかけられるともうほとんど助かる見込みはないんだよ。現地人が証人として呼ばれていてね、『こいつがやった』って言えばそれで有罪が確定してしまう、顔なんか分かりっこないよ、みんな適当な罪名なんだから」それは大変な恐怖でした。

戦争が終わったら立場は完全に逆転していました。現地の人たちから罵声を浴びせられながら収容所に向かったという記録はたくさん残されてもいます。
「アオキ伍長は最後までおれといっしょにいたんだから、おれは彼の行動を全部見てるんだ、現地人に何かしたのは一度も見てないよ。彼は何もしてないはずだよ」
でもそういう人が、自分より先に呼び出されて処刑されてしまい、今ここで自分は生き延びている、ウハチさんには、アオキ伍長への、同情というよりなにか後ろめたいような暗い気持ちが残っていたのかもしれません。

この山間の村でしずかにに暮らしているように見える老人にも、真夜中にびっしょりと汗をかいて目を覚まさせるような苦しい記憶があるのでした。

13)ゲリラ

「山の中のゲリラと戦ったこともあったんだよ」
「ゲリラって、現地の人でしょう?どうやってただの農民なんかと見分けるんですか?」
「ふだんは赤やピンクのシャツを着てふつうの恰好しているけどね、山の中で動き回ってはこっちの情報を調べて敵に知らせていたんだよ」
アメリカ軍は上陸して日本軍と戦う前からフィリピンの現地人をゲリラとして訓練し、雇ってもいたのです。そういうゲリラ部隊が相当の数いたそうです。日本の軍隊はこの現地人のゲリラにずいぶん悩まされていたと聞いていました。

「山でゲリラに会ったら、どうするんですか?」思わずそう問いかけてしまった後ですぐに後悔していました。聞いて良かったんだろうか?
会話をしている縁側には、日除けのための白い帆布が軒先から庭の方まで張り出してありましたが、その時間にはもう陽は傾いていました。しかしもっと傾いて山の陰に入ってしまう前に、日よけの帆布の脇から西日は濡れ縁に座るウハチさんの額を照らし、わたしたちの座っている座敷の奥にまで入り込んでいまだに容赦ない熱気を浴びせてくるのでした。じっとりとした暑さのなかで、わたしはウハチさんから返ってくる言葉を怖れていました。

ひざまずいている、半裸の姿、浅黒い肌の一人のフィリピン人、言葉は通じない。その人を囲んで、殺気立った兵隊たちがまわりに銃を構えて立っている。そのまま帰したら翌日にはそのゲリラの情報を元にして、自分たちの陣地に空爆や集中砲火が浴びせられるはずです。そうなることが分かっていれば、次にウハチさんたちがとった行動は?、、、戦争のルールからすれば、その場で捕虜にして部隊まで連れて行くべきなのです。

「撃ち殺したよ。戦争だもの仕方がないよ、、、、」 ウハチさんの答える口ぶりはいつものように坦々としていて、特に力を込めて、というのでもありませんでした。

その頃のルソン島の日本軍は、捕虜を収容するどころか、自分たちの食糧さえなくなり、負傷兵や病人で歩けないものはその場に放置されるしかなかったそうです、時には自決用の手榴弾を持たされもして。そんな軍隊の崩壊寸前の状態ですから、捕まえた捕虜を連行する場所も人員も食糧もなかったというのが実情だったのです。だからそんなことは、当時の戦争の現場では日常あちこちでくりかえされたことだったのかもしれません。

そのとき誰が実際に撃ったのか、誰がその決定をしたのかなど、その先はもう言うものじゃない、聞いてもいけない、そんな気がしました。もしかしたらウハチさんはそのことを話すタイミングをずっと考えていたのかもしれないと今では思えます。

「みんな頭が狂ってしまうんだ、気狂いだよ、誰でも戦争の中に入っちゃうと」と付け加えました。
 この『告白』に対してわたしも何か言わなくてはと思いました。でも何が言えたでしょう、
「そうでしょうね」と、かろうじて答えただけでした。

それからは気の抜けたような会話がしばらく続き、やがてじりじりとした熱さをもたらしていた夏の陽も西の山陰に落ちると、ようやく夕暮れの涼しい風が家の前の沢から吹き込んできました。
「またつまらない話をして時間をつぶさせちゃったね」と、笑みを浮かべながらゆったりとウハチさんは立ち上がるのでした。

その後ろ姿を見送ったあと、夫はしばらくして、
「アオキ伍長の夢は、これかもしれないね。ウハチさんは自分はまったく潔白だとは言い切れないわけだよね『首実検』に対してさ」
アオキ伍長が何もしていないとしたら、もしかしたら自分の身代わりになったのかもしれない、という思いがいまだにウハチさんのどこかに引っかかり続けているのではないかと言うのでした。。

14)輜重隊(しちょうたい)

しばらくは、ウハチさんはルソン島でもずっと戦車に乗り込んでいたのだと思い込んでいました。
 「戦車に乗っていたんだよ」と最初に言われた言葉を、わたしが単純に想像してしまったのです。それまで軍隊のことは何も知らなくて、映画やテレビで見たものからのイメージしか持ち合わせていなかったのですから。機甲師団にはいろんな車両があることや、その得意とする戦術についてもはじめて聞きました。

そして話がだんだん細かいことに進んで行った時に、
 「おれは輜重隊にいたんだ」と聞かされて、
 「シチョウタイって、何ですか?」と、話の流れを中断してしまいました。
 「輜重隊はね、戦車隊の後方支援をする任務なんだ。
 キャタピラ式の装甲車やトラックで前線に弾薬やら食糧なんかを運ぶんだよ」
ウハチさんがいた輜重中隊は、記録を調べてみると兵員100名ほどに、装軌貨車1台とトラック32台があったと記録されています。全員が車に乗って移動するのですから、車が故障した時にはウハチさんの電気の知識が役に立ったかもしれません。

「じゃあほんとは、ウハチさんは敵と撃ち合うはずのない部隊にいたんですね」
「戦闘が激しくなったらそうは言っちゃあいられないよ。
部隊がサラクサク峠に転進してからは、ゲリラや偵察機やらに狙われていて、
もし見つかったら次の日は爆撃されるか砲弾の雨だ。動けるのは夜の間だけだった」

サラクサクの作戦では、ずっと荷役人足のように弾薬と食糧を山の上にある前線に運ぶ仕事を何ヶ月もしたそうです。
激しい戦闘が続く山中を、木の枝でこしらえた手作りの背負子に満載した弾薬や食糧を背負って、サラクサク峠に向かう1、500メートル級の山の峻険な岩場やジャングルの続く暗い夜道を歩いたのです。今わたしたちの目の前の老年のウハチさんは、わたしと同じくらいの背丈で155センチほどでしたから、決して頑健な体格には見えませんでした。

 
 
 
 
 
 
 

となりの戦車隊長/バレテ峠と同じ夏

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