《第5章:アンチポロ》
29)アンチポロへの山岳転進

『撃兵団』は、6月23日にサリナスを撤収して、翌日にはアンチポロへの転進を始めました。
「転進たって、もう敗走だよ」と、ウハチさんは言います。
「サリナスからアンチポロまで60キロもあるんだよ。道もなくて誰も歩いたことがないようなところをしかも2000メートル以上もあるような山の中なんだ。食料もなくて塩だけを持ってね」

サリナスで塩を分けてもらった部隊はまだ良かったのです。塩を持たないまま山岳地帯に踏み込んだ部隊はもっと悲惨でした。食料がすっかりなくなってからは、現地人の山岳民族が耕作した芋畑を荒らしては食いつないでいたそうです。
「そんなところまではアメリカ軍も攻めて来ないから久しぶりに戦闘のない毎日を過ごしたとは聞いてるけど、軍服だってボロボロだし靴も使えないほど破れているしで、みんなひどい格好だったんだよ。輜重隊だけは背中にまだ塩袋を背負っていて塩だけはあったから、それだけは良かったけどね。それでも食いもんがないんだからなあ、他の部隊が2週間で行ったところをひと月かかっているんだ。やっとの思いでアンチポロに着いたそうだよ。後から行くから、前通った人間に畑の芋も何もほとんど採られちゃっていて食えそうなものを探すのが大変だったんだ。病気や飢えで歩けなくなってしまった兵隊はみんな死んでいったよ」

「ウハチさんたちは、その頃どこにいたんですか?」
「おれたちアダチ中隊はもうキャンガンにいたよ。ドバックスから10日もかかったけどね」
「じゃあ先回りして、輜重隊の本隊の到着を待っていたんですね」
「中隊長はそのつもりだったのだろうけど、キャンガンに着いたらすぐに軍司令部づきになってその下で動くことになってしまったんだ。倉庫に積まれた1000俵もの塩を山奥まで運んだりしていて、なかなか本隊に戻れなくなってたんだよ」

またもや軍の命令系統の複雑さに、話がすぐには理解できませんでした。『撃』へのアンチポロ転進命令の目的は、ルソン島日本軍としての最後の砦を守るための布陣だったようです。軍司令部は自分たちの生き残りをかけてキャンガンからさらに山奥に入って行きました。そこは最初に軍司令部があったバギオからもよく見えていた、2500メートルもの高い峰が続くブログ山の深い谷間でした。

終戦の日まであとわずか一月半という時期です。

30)イゴロット族

その日ウハチさんは写真を持ってやってきました。いつものように縁側に腰掛けると、
「これが戦友会でフィリピンへ慰霊に行った時の写真だよ」5、6人ほどの老人がジープの側に立っている写真でした。今はもうすっかり老人になった人たちの中に、たしかにウハチさんの姿があります。南国の太陽がまぶしいのか、目をしかめて真面目な顔をして写っています。

「山の中にはゲリラが住んでいるから、戦友会で山奥の部落に行く時には政府軍から車を出してもらってるんだよ」
「向こうから攻撃してくるんですか?」
「そうだよ、やつらは今でも銃を持っているからね、道の脇のジャングルから急に撃ってくることがあるんだ。だからジープにはフィリピン軍の兵隊が必ずふたり付いて来て、一人は後ろで銃を構えて立っているよ」
そこまで聞いて、
「フィリピンって、まだそんなに未開なところがあるんですね」と驚いたのですが、後になって記録や手記を読んでみると、そうとばかりは言えないことが分ってもきました。ウハチさんがゲリラと呼んでいたのは、ルソン島の北部山岳地帯に住んでいるイゴロット族だったのです。

『撃兵団』が前人未踏の山岳地帯を越えてやっとたどり着いたアンチポロにも、イゴロット族の集落がありました。ちょうどその頃が稲の収穫期で、美しい棚田には黄金の稲穂が美しく実っていたそうです。飢えている兵隊たちは、田んぼに駆け寄りました。次々に稲穂をちぎっては、そのまま口に入れて食べたそうです。戦後に書かれた手記には、生き延びた兵隊のその時の喜びが生き生きと書かれてもありました。それまでは雑草を食べたり、犬を食べたり、猪を見つけて撃って食べたりもしていたのです。中には、「イゴロット族の水牛を撃ち殺して食った」という部隊もありました。

「戦友会ではね、毎年ルソン島の僻地の小学校にオルガンを贈っているんだよ。足踏みの昔のオルガンなんだ。山奥だから電気オルガンじゃ使えないからね。でもこの頃はなかなかそういうオルガンが手に入らなくってね、今楽器会社でも探してくれているんだよ」と、戦友会の最近の活動を話してくれるのです。

鉛筆やノートをたくさん持って山奥の小学校に来た日本の老人たちを、アメリカ人の宣教師の先生と子ども達がうれしそうに取り囲んでいる様子を想像してみるのです。

31)ラムット川仮橋

サリナスの戦闘の前夜に、北部のキャンガンに向けて車で出発したウハチさんの部隊も危機的な状態からの脱出を繰り返していました。ドバックスからキャンガンまでは60キロほどなのですが、10日もかかっているのですから。

昼間はアメリカ軍機に見つからないように対空遮蔽(たいくうしゃへい)して、樹林の中でじっと夜を待ちます。木の下に戦車やトラックを突っ込んで、枝や葉っぱで車を完全に覆い隠すのです。かなり低空飛行をして偵察するアメリカ軍機に対して、道に残ったタイヤの跡を消しておくことも大事なことでした。これをやらなかったために、隠れていたところを空からめくら撃ちされた他の部隊の車両があったのです。ウハチさんが、
「隊長が良いと生き残れるけど、ひどい隊長につくと殺されちゃうよ」と言っていたのはこういうこともあるのかと思いました。

ライトも点けずにまっ暗な国道5号を北上して行くのです。やっと4号線にさしかかりラムット川の手前までたどり着いたところで、突如深夜の渋滞です。撤退する部隊のトラックが何十台も停まっているその脇には、避難する在留邦人の荷物を積んだ荷車がぎっしり集まっていて身動きができないほどなのでした。

ラムット川には枕木を敷き詰めて作った急ごしらえの橋がありましたが、幅は狭いうえに無灯火で足元が見えないので脱輪してしまう車が続出していたのです。しかも橋の手前の道はぬかるんでスリップして動かなくなった車もありました。この退却路のネックに人も車も集中して来ているのに、何の対策もされていない無秩序な状態だったそうです。もうすぐ後ろの15キロの地点までアメリカ軍が迫っているので、だれもが皆焦っていました。

歩いて逃げている兵士たちに混じって、病気の人や子ども連れの女性の避難民もたくさんいました。みんな手にはタイヤを細く切ったものを持って、火を灯しながら行き場もなくオロオロとしているのでした。しかしその光景を遠くから眺めると、ちらちらと揺れる小さな火の行列がまるで夜の村祭りのようだったそうです。脱輪した車をジャッキアップしたり、泥道でスリップしている車を押したりしているうちに夜が明けてしまいました。

空が明るくなった途端、道にも橋の上にも誰もいなくなりました。アメリカ軍機を恐れてジャングルの中に逃げ込んでしまったからです。しかしアダチ隊長は前進の命令をしました。
「夜明けから7時までの1時間は、作戦当初の経験により、敵の飛行機は飛ばず砲弾も撃ってこないひと時である」ということを知っていたからでした。

橋を渡り終えたころから雨が降り出し、やがて豪雨になってしまいました。その日のうちに橋は流されて、アダチ中隊がラムット川を渡った最後の部隊になりました。

32)ラムット川右岸の殺戮

しかしラムット川の向こう岸には、まだ中隊のトラックが1台取り残されていました。最後尾を走っていた燃料を積んだトラックの到着が遅れていたのです。ミウラ曹長を連絡係として向こう岸に残しておいて、アダチ中隊の車両部隊は先を急ぎました。雨の日は敵機が飛んでこないのが分っているので、少しでも前進しておきたかったのです。草原の広がる丘陵を一気に上り、やっと樹林のある最初の部落に着きました。そして久しぶりに原住民の住居のバハイでゆっくり休ませてもらったそうです。

夕方になってキャタピラ式のトラックに乗って遅れている隊員を迎えに行ったアダチ中隊長は、橋が流されているのを見て愕然としたそうです。濁流が渦を巻いて流れているラムット川の向こう岸には、自分の部下だけではなく、まだたくさんの兵隊や避難する人たちが取り残されたままだったのですから。

翌日6月9日は雨もすっかり上がり晴天でしたが、そういう日には必ずアメリカ軍機が飛んでくるのです。道路に取り残されたトラックや逃げ遅れた荷車目がけて、10数機もの飛行機が飛んで来ては機銃掃射を繰り返して行きました。その先のサントドミンゴ峠でも土砂崩れがあって、そこでも渋滞していたのです。動きが取れなくなった車や、隠れるための樹林がないような場所にいる人々は、飛行機からの好目標になったのでした。

この同じ日に、アメリカ軍戦車の地上部隊もラムット川まで数キロのバカバックに侵攻してきました。しかしまだラムット川の岸辺には、病気の兵隊や子ども連れの避難民がひしめきあっていたそうです。川の向こうに渡りさえすれば、山岳地帯に逃げ込めると思っていたからです。川の周辺は草原が広がっていました。隠れる場所も逃げ場もない人たちの群れに向かってM4戦車が縦横に走り抜け、そして踏みつぶしたそうです。空からの機銃掃射も草原を駆け巡りました。

ウハチさんはこの話はしてくれませんでした。ウハチさんの本棚に残されていた資料の中に見つけたのです。「戦車第二師団整備隊の戦記」に牧清さんが詳しく書いていました。そこには「米軍戦史にはカットされている事件が起きた」と、書き始められています。牧さんは整備第二中隊の少尉でした。整備隊は、ラムット川仮橋が流される5日前に通過することができたので助かったのですが、「生き残ったものが他界すれば、自然に忘れ去られる悲惨なことである」と、この話を結んでいます。

もうウハチさんがいないリビングでわたしが指し示したページを読み終わった夫が、
「これは快楽殺人だね。戦争には必ずこういうことが起きるんだ」とつぶやきました。
「でもこんなこと、命令でやるんだろうか」と、思ったまま口に出したのですが、飛行機も飛び大きなM4戦車が動くのには、それなりの統率がとれていなければできないはずだとも思うのです。

また別の戦友会の記録の中には、塹壕の中で電話通信をしながら、片手に持った写真を眺めて泣いている若いアメリカ兵のことが書いてありました。斬り込みに行った時に隠れながら見たのだそうです。「家族の写真を見ていたのだろう」と書いてありましたが、わたしには恋人の写真のように思えるのです。サラクサク峠の戦闘では、アメリカ軍にも相当の戦死者が出ました。対空遮蔽をする必要のないアメリカ軍の塹壕はただ穴を掘っただけの簡単なもので、穴の底には防水加工した段ボールが幾重にも敷き詰められていたそうです。斬り込みで襲撃されたアメリカ軍の陣地のタコ壷の底には、たくさんの家族や恋人からの手紙や写真が散乱していたと言います。

軍隊という組織が動き出すと、戦い方のルールもなくなって、人の感情もすっかり変わってしまうもののようなのです。

33)軍直轄からの解放

アダチ中隊がやっとキャンガンに着いたのが6月15日ですが、撃兵団(げきへいだん)の本隊はサリナスで戦闘中でアンチポロへの転進命令もまだ出ていませんでした。『撃』のどの部隊よりも早く北方に移動してしまったウハチさんたちは、まずキャンガンにあった派遣班に向かいました。そこに軍司令部の参謀がいていろいろと指示をしていたのです。

早速アダチ中隊長は、独自に転進してきた中隊の状況を報告に行きました。そこにいたカワセ参謀から、ちょうど良いところに来たとでも言うように、軍直轄になるよう命令を受けます。ファームスクールの野戦倉庫に積まれたままの塩と食料をキャンガンまで運ぶ任務です。キャンガンまでの20キロは車で、そこから先は車が入れない細い山道なので人力で担ぎ上げました。

輜重隊(しちょうたい)の兵隊たちに混じって配属された人足に、高砂族(たかさごぞく)の男たちがいました。「軍夫」として台湾で徴用された彼らは、険しい山道でも軽い足取りで歩いていたそうです。台湾の山岳民族がルソン島まで連れて来られて働いていたのでした。

アダチ中隊の無線機はまだ機能していましたから、軍直轄になってもサリナスの輜重隊本部とはいつも無線交信できていたのです。アダチ中隊長は本隊の動きをいつも把握していたのでしょう。アダチさんの頭の中には、早く『撃兵団』に戻らなければという思いがありました。

6月20日いつものように通信していると、伝令係が軍司令部からの命令文を持って帰ってきました。中隊の無線機を使って『撃兵団』へ打電するようにとのことでした。傍受を恐れてのことだったのかもしれませんが、もう司令部同士の連絡網も寸断されていたのかもしれません。アンチポロへの転進命令はアダチ中隊の無線機で伝えられたのでした。

「アダチ中隊長は塩の輸送がぜんぶ終わってから参謀に掛け合ってくれたんだ。アンチポロに集結する部隊に復帰させてくれってね。おかげで助かったよ。あのままキャンガンの谷に入っていたらもっとひどい目に遭っていた」
ひとりの中隊長にはどうにもならない上からの軍務命令なのですが、わずかの隙間を狙って行動しているのが記録を読むと分かるのです。司令部の周辺が安全だとは限らないのでした。
「軍の司令部には最後まで食料はあったかもしれないけれど、あの谷はアンチポロよりもっとひどかったんだよ」

記録や文献に残された資料を読むと、たくさんの避難する在留邦人がキャンガンの奥のアシン渓谷に入り込んで行ったのです。ただ険しい山道が続くだけで、食料もなく雨露をしのぐ家もほとんどないような厳しい山岳地帯でした。それでもひたすら十四方面軍司令部があるはずの山奥を目指して歩いていったのですが、途中で飢えて亡くなったり、病気で倒れたりした老人や女性や子どもがたくさんいたのです。

しかもそこは軍の庇護どころか、辺りには遊兵と呼ばれる前線から離脱した兵隊たちがいて、彼らも行き場のない荒んだぎりぎりの状態で生きていたのでした。

34)ゲリラ討伐

ウハチさんのいるアダチ中隊も、やっと「撃(げき)兵団」に戻れることになったのですが、その見返りのように軍司令部のカワセ参謀からいやな任務を言い渡されてしまいました。憲兵隊で組織された「警戦隊」がやろうとしているゲリラ討伐に協力するようにというのです。

輜重隊(しちょうたい)は前線への物資輸送をするのが主な任務なのですから、常に武装はしてはいますが、元々は戦闘部隊ではないのです。それがよりによって憲兵隊といっしょになってイゴロット族の村を襲撃するというのですから、アダチ中隊長としても内心はこの命令を受けたときは苦しかったのにはちがいありません。

アダチさん自身がこの時のことを記録していました。
 7月12日の午後、指示されていた山腹にあるイゴロット族の部落へ向かいました。収穫前の棚田に広がる稲穂がとても見事だったそうです。
 しかし突然の襲撃を受けたイゴロット族はどうだったのでしょう。あわてて谷を伝って南方に逃げて行ったということですが、警戦隊が日の丸を掲げてさかんに重機関銃で射撃していたと書かれてもあります。

もう戦争の様相は、この頃ではすっかり変わって来ていました。将校から一兵卒にいたるまで、戦うことよりも毎日の食べ物をどうやって手に入れるかということで奔走していたそうです。ですからこのゲリラ討伐のほんとうの目的が、イゴロット族を追い出して彼らの食料を手に入れることだったのは、アダチ中隊長にも最初から分っていました。この苦しい任務を引き受けたことで、彼らの住居のバハイに残されていた籾の分配にも預かり、豚汁という久しぶりのごちそうも食べることができたのでした。しかも師団司令部ではこれからの自給自足を考えて、イゴロット族の畑や田んぼを各部隊に割り当てたりもしたそうです。

その頃アンチポロ周辺に住んでいたイゴロット族は4000人ほどだったそうです。そこに難民のようになっている日本兵がなだれ込み、武装した兵隊たちによって追い出された彼らイゴロット族もまた、その時から難民にされてしまったのに違いありません。ルソン島全体が難民の島のようにになりつつあったのです。

 

35)南方春菊

「撃兵団」の主力が北アンチポロに着いたのが7月8日です。塩を担いでの山岳転進をした輜重隊(しちょうたい)は、さらに遅れて7月の末にやっと南アンチポロに到達しました。しかしもっとも遅く到着した部隊がありました。輜重隊のミヤニシ中隊です。もう終戦も近い8月13日まで山の中を歩き続けていたそうです。このミヤニシ中隊長は、サラクサク峠のイムガン集積所が爆撃される前夜に輜重隊全員を危機一髪で脱出させた人です。サリナスを撤収するときにも最後まで残って、運べない武器や弾薬を爆破処理してから山に踏み込んだのです。

ミヤニシ隊だった金井政友氏の手記には、アンチポロまでの過酷な体験が書かれていました。
ミヤニシ中隊はすぐにアンチポロに向かわずに、まず進路を西に取ったそうです。隊長はゲリラ作戦を立てて独自に戦い続けるつもりだったようですが、部下の兵隊たちの様子を見て諦めたのだそうです。疲れきって口をきこうともしない兵隊たちは、休憩のあと出発の号令をかけても誰も立ち上がろうともしません。隊長が杖で叩いて、
「ここに残ると死んでしまう」と叱りつけて動かしていたそうです。朝、脚絆を巻き直そうとして解くと、血を吸った山ヒルがころころと落ちたこと、シャツの縫い目にシラミが列をなしてくっ付いていたこと、永い間の行軍でも何とか生き残っていた人たちでさえ、皮膚が赤くただれたり腫れたり下痢になったりもしていました。

7月の半ばになって、アメリカ軍機がビラを空から撒いていくようになりました。「今からでも遅くはない」という書き出しや、収容所で優遇されている日本兵の写真入りなどもあったそうです。しかし誰も相手にせずに、煙草の巻き紙にしたり、炊事の焚き付けにしていたそうです。米は一粒も浮かんでいない鍋の中身は、イゴロット族の芋畑から手に入れたわずかな甘藷と、春菊に良く似た雑草でした。この雑草のことを兵隊たちは、「ナンポウシュンギク」と呼んでいたそうです。しかしこの野草も決しておいしいものではなかったようです。消化されずにそのまま出てしまっていたと書いている人もいましたから。

アンチポロに着いたどの部隊も消耗しきっていたのですが、それでも方面軍司令部は「撃兵団」のアンチポロ到着の知らせにたいへん喜んでいたそうです。ぼろぼろだとは言え、「撃」がまだ戦力を保持して再集結できたことや、イゴロット族の棚田を占拠して食糧確保も達成しつつあるのを知って気を強くしたのでしょう。ヤマシタ大将は自らの名で、「感状」まで出しています。昭和20年7月23日の日付です。


 

 
 
 
 
 
 
 

となりの戦車隊長/バレテ峠と同じ夏

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