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1)生き残り
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となりのウハチさんが亡くなったのは1998年の聖バレンタインデーの朝でした。82歳だったそうです。最期の数日こそ病院のベッドの中でしたが、それまではずっと一人暮らしをしっかり続けていました。そのウハチさんが話してくれたフィリピンでの戦争体験のことを、今やっとここに書き留めることにしました。でも、あの時の話をどこまで覚えているか心配でもあります。メモをとることもなく、ただ感心したり驚いたりして聞いていただけなのですから。

日本が先の戦争で、終戦日の当日まで続いた米軍とのフィリピン戦、
そこでの“生き残り”というのは、ほんとうに少ないのだそうですが、ウハチさんの体験の変わっているところは、終戦後アメリカ兵として帰国したことです。敗戦の日本にアメリカ占領軍、つまりGHQの一員
となって帰って来たのです。最後まで戦えと言われても、武器も食糧も底を付き、ただジャングルの奥へ奥へと逃げ回るうちに終戦になってしまいました。「捕虜になって良かったよ。あのまま戦争が続いていたら飢えて死んでいた」

しかし捕虜収容所ではひとりひとり簡単な軍事裁判にかけられます。何の罪を問われるのか、誰が証人なのかもはっきり分らないまま、次々と仲間が呼び出されては判決が下され、その中には戦争犯罪人として処刑される人も出てきました。
 「向こうの方に処刑場が見えるんだよ。あいつがやられたらしいって聞かされるとビクッとするんだよ、明日はオレじゃないかと思ってね」
 ただ自分の順番を待っている不安な日々が過ぎて行きました。そんなある日、ぼんやりとひなたぼっこをしていると日系のアメリカ兵に声をかけられたそうです。
 「お前何やってたんだ?戦車兵か。電気いじれるか?それならなんとかなるかもしれない」と、何が目的か訳の分からない会話を交わしたそうです。

2)戦車に乗っていた
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真夏の太陽に照らされて、庭の向こうにゆっくりとガレージから出て来るウハチさんの車が見えました。うちの門の向こうのいつもの位置で一旦停まります。それから老人特有の慎重な動きで運転席から降りてきました。出かけるときは必ずガレージの扉をまた降ろすのですが、その日は手に青いバケツを持っていましたから、車の掃除をするつもりなのでしょう。開け放した縁側から見ている私に気がついて、 「今日も暑いね」と笑いかけて来ました。 紺色の作業帽をかぶり作業用のシャツとズボン、黒いゴム長をはいています。  買い物や病院に出かける時は、きちんとアイロンのかかっているチェック柄のシャツにゆったりとしたベージュのズボンなどをはき、かなり小柄で痩せた身体でしたが、貧相に見せない上品さがありました。そんな姿から「この人は土地の人ではないな」と最初から分かりました。  しかし後で知ったことですが、ウハチさんには、アメリカという異国の臭いも入っていたのです。 ホースで水をジャージャーとかけるというやり方は決してしません。 「水でぬらした雑巾で拭いた方が車には良いのだよ」というのがウハチさんの自説でした。手元を見ると、布ではなくてセーム革を使っています。上等のセーム革らしいのですが、もうすっかり灰色になっていて良く使い込んでありました。  ボンネットを開けて中の機械まで拭いているのを見た私は、 「エンジンのパイプまで磨くんですねえ」と驚いて言うと、 「僕は戦車に乗っていたからね、どうしても中まできれいにしないと気が済まないんだよ」という答えが返ってきました。初めてウハチさんの<戦争>に触れた瞬間でした。

3)バレテ峠
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それまではあまり付き合いもなかったウハチさんが、たびたびわが家にやってくるようになりました。その頃うちに迷い込んで住みついた野良犬への差し入れが目的でした。 

「この肉を犬にくれてやって」と言いながら、縁側に腰掛けてしばらく過ごすのです。

やがて自身の手でも肉を一切れづつ与えたりするので、犬の方もウハチさんにすっかりなついてしまいました。いつも生肉でしたし、上等の牛肉のこともありました。量も多く、パック詰めの生肉を一枚一枚犬にやっている、その光景はちょっと異常にも思えましたが、孤独な老人の心の中の問題とか、他にも何か特別な理由もあるような気がして、ただ、 

「いつもありがとうございます」と言うだけにして、ウハチさんがくつろげるようにと、夫といっしょに横に腰掛けて過ごしていました。

日除けの白い帆布の下ではありましたが、ギラギラ太陽が反射している中で、3人並んで何時間も過ごしている光景は近所の人の目には奇異に映っていたかもしれません。 

 

ウハチさんが戦争について話し始めたキッカケが何だったかはもう覚えていませんが、「バレテ峠」という地名がいちばん強烈なキーワードとして今も私の頭に残っています。

はじめはウハチさんは満州で編成された「戦車第2師団」に配属されたのでした。その後フィリピンに戦車が投入されることになったのでルソン島に向かいます。「バレテ峠」とは、フィリピン戦でもっとも激しく悲惨な結果をになった最後の戦場の名前でした。

 

こういったことは、家の書棚に残されていた戦友会誌から知ったことなのです。 実は今の家は、ウハチさんの亡くなった5年後に売りにだされたもので、すぐに私たちが買い取って引っ越した家なです。ウハチさんの息子さんが事業に失敗してお金に困っているというし、こちらも借家住まいの不都合や不満が鬱積していたのでちょうどいいやと思ったですが、どこかでウハチさんの遺志を受け継いでいるような気持ちもあったのかもしれません。家の中には、ウハチさんが死ぬ直前まで書き続けていた日記も押し入れの隅に残されていました。

 

窓から見えるあの縁側を、あの当時のウハチさんの目の位置から眺めている毎日なのです。ふしぎな気持ちがします。

4)戦車戦
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「戦車なんて最初だけで、後はぜんぜん役には立たなかったんだよ」と、ウハチさんは言います。戦車や車両の大半をはじめの方の戦闘で破壊されてしまいます。すでにアメリカ軍の持つ兵器の規模や威力は、日本軍のものをはるかにしのいでいました。制空権も完全にとられてしまってからは海からの補給路が絶たれ、ルソン島は完全に孤立した戦場になってしまったそうです。

だんだん戦場は山岳地帯へ移って行きました。車両も燃料も少なくなくなってきてからは、前線へ物資を運ぶのはすべて人力です。
ウハチさんたちは重い砲弾や弾薬を肩や背に担いで山の上にある陣地に担ぎ上げるのですが、広い道を歩いていたのでは敵のアメリカ軍の飛行機に狙い撃ちされるので、ジャングルの中の道なき道を夜になって運び上げたといいます。
「おれたちは何度も峠まで荷揚げをしたんだけど、爆撃がものすごいんだよ。昼も夜もめちゃくちゃに落とすんだ」
 ある時砲撃から逃れようと、ウハチさんは急いで道の脇に掘られた塹壕に飛び込んだのですが、背中に砲弾の破片を受けてしまいます。
「痛いなんて言ってられなかった」その破片は、ずっと後アメリカ軍の軍病院で抜き取られるまでそのままでした。

「あんまり爆撃がすごいから、恐ろしくなって穴から飛び出すやつが出てくるんだよ。初年兵なんか耐えられなくて、頭が変になっちゃうんだ」経験が少ない若い兵隊に多かったそうです。
「こっちはそうなるのが分かっているから、戦闘が始まったら初年兵の服をつかんで押さえつけておくんだよ。それに逃げ出したくても後ろでは憲兵が銃を構えて逃げ出さないように見張っているんだから」

わたしたちが中庭を眺めながら話をしている縁側の下には、暑さをさけて犬がずっと潜り込んでいました。

5)レモネード
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ここらのイナカの習慣に従えば、談話の席には必ずお茶くらいはあるものなのですが、
 「お茶でも入れましょうか」と言っても、ウハチさんは頑として断り続けました。そうは言ってもと、ぎこちなく出そうとしたものを、仕方がないので引っ込めてしまっていました。
 

でもちょっと変わったものだったら飲んでくれるかもしれないと思って、暑い時期でもあったから、ある日レモネードを作って冷蔵庫で冷やしておいたのです。しっかりレモンをしぼった本物のレモネード、わたしたちが大好きな甘い飲み物なのですが、やはり、
「おれはいらないよ。飲むんだったら、あんたたちだけで飲んでよ」と、これもきっぱりと断られてしまいました。

ウハチさんの話にわたしはたびたび質問を差し挟みます、
「中尉と中佐はどっちが偉いの?」だとか、軍隊の階級や組織のことなどまるで分からないのですから。
「ウハチさんの戦車部隊って、何台くらいで動いていたんですか?」と訪ねてみたりもしました。戦車隊長として数台の戦車を束ねる立場にあったような、でもその時のウハチさんの答えたことを今はもうはっきりとは覚えていません。

夫の父親もウハチさんと同じで南方に戦争に行っていました。
「ぼくの父はインドネシアに行ったんですけど、場所によってずいぶん違うんですね」
「あっちもひどかったんだろうね」
「そうでもないみたいでしたよ。話を聞いてると、なんか気楽な感じで」
「いやそうじゃないと思うよ」

ウハチさんが帰った後で夫は、
「ぼくは中学生の頃から戦争の歴史ものなんかを読むのが好きな変な子だったんだよ。それでも本の中に書かれてあることが実感わかないこともあってさ、それでオヤジに聞いたんだよ。例えば仲間同士で殺し合いしたとか、人肉を食った食わないとか、、、それに恐ろしいから逃げ出そうとする兵隊はいなかったのか、とか。
だから『ほんとうにこんなことあったの?』って。そしたらオヤジは、『それは嘘だ』って言うんだよ、『日本の軍隊は優秀だったから規律もしっかりしてた』って。おかしいな、とその時でも思ったんだけど、ウハチさんの話の方がほんとうに聞こえるね」と、長い間の疑問が少し解けたようなことを言っていました。

この日もそうでしたが、ウハチさんは何も飲まずに真夏の縁側で何時間も話し続けるのでした。話しているときのウハチさんは何かに対決しているかのような厳しい表情なのです。彫りの深い顔の眼鏡の奥で光っていた目は、目というより眼球そのものに見えました。

6)パチラの木
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その日も片手に肉の入ったアルミホイルを掲げながらやってきたウハチさんは、軒下に置いてある観葉植物に気がついて、
 「これパチラって言うんだよ。フィリピンにはこれのでかいのが生えてるんだよ」と言いながら、両腕で丸い輪を作って幹の太さを教えようとしました。
 「竹だってむこうのはでかいよ、しかも日本のみたいに中が空洞じゃないんだから。竹を使いたくてナタで伐ってみたら、スカスカしたようなのがぎっしり詰まっていたから驚いた。これじゃ使えないなって諦めたけどね。あそこは熱帯のジャングルだから、何でもすぐにでかくなっちゃうんだろうな」と、ヤシの実の殻に植え込んであったパチラの小さな苗を懐かしそうに眺めていました。

「ムカデもでかかった」とは、ムカデがきらいなわたしには恐い話でした。山間のこの辺りでは夏になるとムカデが家の中に入ってきて、年に2、3回はぎゃーと悲鳴をあげていたのですから。
「ムカデは良い出汁がとれるんだよ。ムカデが出た時にふっとフィリピンのことを思い出して、女房に内緒で味噌汁に使って、『どうだ、おいしいだろう』と聞いたら、『おいしいわね、何の出汁?』と聞くから、『ムカデだ』って言ったら、怒ってね。それきり食べなかった」と、笑っていました。

わたしたちはウハチさんの奥さんには会ったことはありません。その10年ほど前になくなっていました。

7)斬り込み
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「食べられるものはみんな大抵のものは食ったよ。蛇も結構うまいんだ」と、ニヤッと笑って話す口元が、少し得意そうで若々しくも見えました。しかし、夜のジャングルの中を音を立てないように敵陣に乗り込んで行く<斬り込み>の話になると、ウハチさんの目がギョロギョロとしてきます。ウハチさんの生々しい記憶が呼び戻されて、中庭の芝生の上に映し出されているようなのでした。

<斬り込み>とは、少人数でジャングルの中を敵の探知機や集音マイクのバリアーをかいくぐって、敵陣に奇襲をかけることです。成功率も生還の確率もかなり低かったようですが、戦車も車両もが破壊されてしまって兵隊も減って行く中考え出されたゲリラ的な作戦です。

「上官のやつら、おれたちだけに何度も斬り込みを命令するんだよ。やっと生きて帰って来たのに、また『斬り込みに行ってこい』ってね」 ウハチさんが上官に睨まれるようなことを何かやったわけでもないようなのですが、もともとの指揮官が死んでしまったり、兵隊が減って部隊が構成できなくなったりすると、他の部隊に編入されたり吸収されたりして、直属の上官が変わることもあります。そうなると、新しい指揮官と馴染みのない兵隊に危険な任務が割り当てられるということも起きたようです、そこは軍隊といっても人間の集団ですから。毎日が死の恐怖との戦いだったわけで、そんなぎりぎりの精神状態で戦っているうちに気持ちが不安定になる人や、指揮官のなかにだって、現場を放棄して逃げ出してしまう将校さえもいたのだそうです。

「敵の配線ケーブルなんかにも触らないように、じりじりと慎重に進んで行くんだ。ほんとうにゆっくりしか進まないんだよ。キャンプがすぐ見えるところまで来て、明るくなるのを待つんだ。戦車のそばでタバコを吸いながらしゃべってる黒んぼが何人か見えたから、そこに向かってみんなでイチ、二ッ、サン、で一度に手榴弾を投げたらあっと言う間にみんな逃げちまって、誰もいなくなったよ」

アメリカ軍の戦い方をよく知っているウハチさんたちは、逃げた兵隊たちがすぐには戻ってこないことが分かっていたので、それからキャンプの中に残された食糧を探します。
「まずレーションを探すんだよ。ずっと夜通し歩いて来たから腹が減ってるし、いつも碌なもの食べてないんだからレーションは最高のごちそうだった。タバコやガムまで入ってたんだから」
 話しながら、ウハチさんは両手でお盆のような長丸の形を作って見せたのです。缶詰になっているランチというようなもののようです。話を聞いていると、まるで地獄の中のピクニックみたいな、ちぐはぐな場面が想像されました。

しかしその手榴弾の爆発の先には死んだアメリカの兵隊がいたのではないか?と思いながらも、聞き直すことはしないで黙って聞いていました。何度も斬り込みに行き、敵兵がすぐ間近にいたことも一度や二度ではない戦闘で、殺したり殺されたりという中にいつもいたはずのウハチさんが、その凄惨な事実に触れたのはこの時一度きりでした。

《第1章:バレテ》
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となりの戦車隊長/バレテ峠と同じ夏

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